「御言葉による祈り」
エフェソ6章17〜20節
6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「御言葉による祈り」
エフェソ6章18〜20節、2006年4月23日
このエフェソ6章18〜20節は、神の武具について、まとめを書いている箇所です。まとめて言うと、悪魔と戦う神の武具は「祈り」だという事です。
「祈り」は、信仰者にとって、「呼吸」に譬えられます。人は呼吸が出来なければ数十分で脳に深刻なダメージを受けて死に至ります。正に呼吸は生命線です。「祈り」も、”信仰の命においては生命線”なのです。
今朝の箇所にある「霊に助けられて祈り」というのが、どういうものなのかが前節の17節にあります。17節「霊の剣、即ち神の言葉を取りなさい」です…”神の言を聴いて祈る時、その祈りは霊の剣になる…祈りが聖霊に支えられて命と力を持つ神の武具になる”と言うのです。
”御言葉による祈りが、信仰の命と力を与える”からです…”恋愛や新婚の時の、燃え上がる思いは必ず醒めていきます…では、愛が無くなるのか?と言いますとそうではありません。始めの情熱的な恋という感情は、静かだけれども確かな愛へと昇華して行く”のです。それが”結婚した者同士が志していく姿”です…そして、それは”信仰においても言える”のです。
”救われた当初は、神と心が通じ合った喜びに満ちて”います。しかし、そうした感情は薄れて参ります。どうしたら救いの喜びを維持できるのか悩み始める経験は、誰もが思い当たるのではないでしょうか?
そうした中で気づいて至るのが、”イエス様の御声を聴く生活”なのです…”御言葉を信じて歩む事こそが、聖霊が働いて下さる生活”です…”祈りが聴かれ、罪の赦しと、平安と、喜びと、慰めと、導きを与えて頂く”という。それが、”見えないけれど、生きておられる、イエス様を知る歩み”だからです…この歩みは感情に頼る信仰の歩みではありません。地道で静かですが、けれども確かな”命に預かる道”なのです。
言い換えれば、神に背を向け御言葉から離れ、自分の欲や、感情の赴くままに生きていて、聖霊に満たされ、その命と力と平安に預かろうとしても無理なのです…それは、「立派にならなければならない」という事でもありません。ありのままでいいのです。では、どうしたら良いのでしょうか?
その答えを”「神の言葉を取りなさい」”という言葉が示しているのです…17節に、「救の兜をかぶり」とありますが、先ず”主イエスを救い主と信じ、心の王座に主を迎える事です。そして、主の御声に聴き従う心に聖霊が満ちて下さる”のです。
H牧師が喉頭癌を患われた時、入院される一週間前にこのような言葉を語られたそうです。「聖書は、本当に聖霊に感動して記された神の言ですね。私は今、御言葉によって聖霊の命に生かされているんですよ。私のように、死と四つに取り組んで、生きるか死ぬかという所に行った時に、この苦悩の中を、こんなに平安で勝利して進む事が出来るのは、神の言によるしかない。この神の言には、聖霊の命が吹き込まれているからです。これによって、私は支えられているのです」と…。
エフェソ6章18〜19に「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、全ての聖なる者達の為に、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、私が適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私の為にも祈ってください。」とあります…使徒パウロも、ローマの獄中の中で、困難の中でこの手紙を書いたのです。
”困難の中にあって、神の言を求め、与えられた御言葉にすがるように信じた時、彼に迫る聖霊の命を感じて書いた”のでした。それは私共にも言える事です…私共も、”苦しい所、悲しい所を通過する中で、御言葉を求め、御言葉によりすがるように信じ立つ時、聖霊による命の力に預かる事が出来る”のです。
先週、病の中にあるT兄の個人伝道の為にお祈りをお願い致しました。T兄の救いは、奥様のH姉の60年越しの切なる祈りでした。この度の個人伝道に於いて、私も緊張して、「福音の神秘を大胆に示すことができるように、御言葉を下さい」と祈り求めて御言葉を頂きました。その中で、必ずT兄は救われると信じられたので、礼拝や祈祷会でも、「祈ってください」と、皆さんにお祈りをお願いしたのです。
個人伝道をしながら感じた事は、「訪問して下さった、この教会の兄姉の愛がT兄の心を開き、また、H姉の積まれた祈りと、皆さんの祈りに、神様が応えて下さっているな」という手応えでした。
T兄の体調の思わしくない中での個人伝道でした。そうした中の個人伝道の難しさに、心の中でたじろぎを覚えました。けれども、「神が御言葉を与えて下さったのだから必ず救われる」と内なる声が響いてきて支えらた中でお導き出来ました…決心の時、兄弟は、しばしの間、沈黙されました。
その間、H姉が声を押し殺して嗚咽しておられました。T兄は、おもむろに、「今のまま(ありのまま)で良いんですか?」、「聖書の事が分からなくても良いんですか?」と尋ねられました。
私は「十字架に釘打たれて架けられ、血潮を流し、失血によって「私は乾く」と言われた、主イエスの十字架の痛みが、T兄への愛、兄をありのままで救って下さる為だったと信じるだけで良いんですよ。そうしたら、必ず救われます…そして神の愛が心に届き、天国が約束された事が分かるようになりますよ」とお話しました。T兄は、少し黙られて「信じます」と告白されました。感謝の祈りを頭に按手してお祈りした時、兄弟は「救われた事が分かります」と言われたのです。
18節に、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求めなさい」とあります…”あなたがどんな時、どんな状態だろうが、御言葉にすがって祈るなら、その祈りは聖霊が助けて下さるという御言葉がここで成就した”のでした。
ローマの信徒への手紙8章26節にも「霊”も弱い私達を助けてくださいます。私達はどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」とあります。
「聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」というのは、「弁護して下さる」という事なのです。イエス様を信じて、イエス様につながって、御言葉に聴いて祈るなら、私共の祈りが、仮に不十分であっても、聖霊が弁護して、神に聴いて頂ける祈りへと通訳して下さるのです。
”聖霊に助けられて祈る人は、生ける神を体験する人になる”とお話しして参りました…そして、”その事を経験した人は、この福音を誰かに伝える者となりたくなる”のです。そして、その時、私共は経験します…普段はおしゃべりなのに、”福音の神秘(奥義)を誰かに伝えようとする時、どんなに口が重くなってしまう事”を感じます。何からどう伝えて良いか分からなくなるのです。
そこでこそ、”普段の御言葉によりすがる祈りが物を言う”のです…即ち、”聖霊に助けられる祈り”です。”聖霊が語るべき福音の言葉を示して下さる事を経験する”のです。そして、その”相手に働いて生かして下さる聖霊の働きを見、救われていく事を経験できる”のです。
私共は、神に対して案外短気ですから、直ぐに聴かれないと、もう駄目だと思いやすいのです…しかし、”神は聖霊の執り成しによって必ず聴いて下さっている”のです。T姉は約60年、御主人の救いの為に祈られたのです。そして祈りが聴かれたのです。”私共は御言葉を握って、聖霊の助けによって祈る祈りの重さ”を知らなければなりません…何故なら、”御言葉による祈りは、私共の人生を、そして教会を変える神の武具”だからです。