「神との和解・人との和解」 イースター
イースター礼拝
ヘブライ人への手紙二章14〜15節
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられまし た。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に一生涯、奴 隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」
Uコリント人への手紙5章17−19節
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
5:18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
5:19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神との和解・人との和解」
ヘブライ人への手紙2章14〜15節、Uコリント人への手紙5章17−19節.
イースター礼拝.2006.4/16
イースターおめでとうございます。この朝は”キリスト教会最大の祝いの日”です…”キリストが、最大の絶望と悲劇の根源である、死を打ち破り克服して下さった日だから”です。二千年前のイースターの3日前、キリストは朝9時に十字架に架けられ、6時間後に「父よ、私の霊を御手に委ねます」と大声で叫ばれて息をひきとられました。
今、この会堂にいる皆さんにお願いしたい事があります…良く考えて頂きたいのです。”これらの仕打ちは誰に対してなされたのか?”をです。それは、”全能の神に対してであった”という事だったのです。
ヘブライ人への手紙二章14〜15節に「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖の為に一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」とあります。
これ程、慰めに満ちた言葉が世にあるでしょうか?人として来られたイエス様が、そのお身体と血潮を、私共の為に十字架に投げ出して下さいました。それは、”死の恐怖の奴隷となっていた私共を、何とかして救う為だったと言う”のです。
私共の一生は、死の恐れに縛られています。それは悪魔が死の恐怖で私共を縛っているからです。”死の恐れに縛られている時、人は平安と希望、そして神への信頼を失い”ます。そこに神様が救いの御手を差し伸べて下さったのでした。
十字架で神に審かれて罪を贖い、墓に入られた主イエスは、墓に入られ、死を打ち破って復活して下さった”のでした。それは、”永遠の命への道が開かれた徴”だったのです…”既に眠っていた聖なる者達が墓から出て来たのも、この世において、永遠の命への道が開かれたという神のメッセージだった”のです。
復活のもう一つの意味は、「神との平和(愛の関係)が回復された徴」という事でした。今朝、このイースター礼拝において献児式が執り行われます…親の子に注ぐ愛と神の祝福を見る素晴らしい時です…献児式を通して”親子の幸せは、お互いの愛を受け止めあう事”だと教えられます。
”神様も、私共と愛しあう事を望まれている”のです。”十字架によって、罪赦された者は、神との関係が回復されて、神と愛しあう事が出来るようになる”のです。
「神殿の奥にある至聖所を隔てる大きな垂れ幕が上から真っ二つに裂けた」という出来事もその事を物語っております…当時、聖なる神は汚れた世にいる事が出来なかった為、神殿の奥に、特別に聖別された、”至聖所”という所が設けられ、そこに臨在しておられたのです。
”十字架でキリストが息をひきとられた瞬間、至聖所を隔てていた、その大きな〜垂れ幕が、上から、バサッと真っ二つに裂けた”というのです。それは、”神がそこから出て来て下さった事を意味”しています…では、神は何処に行かれたのでしょうか?…”十字架の血潮で聖められた私共の心を住まいとする為に出て来て下さった”のでした。そして人に、”神と人が共に生きる道、神の愛の中に生きる道が開かれた”のでした。
Uコリント5:17「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである」…この「キリストにあるならば」というのは、「キリストを信じて十字架で罪赦された者」という事です。
Uコリント5章18節には、「…神はキリストによって、私達をご自分に和解させ、かつ和解の務を私達に授けて下さった」とあるのです…”十字架を信じて罪赦された者は、神に和解して頂いた者である”というのです。
この”神との和解は、十字架により、神から与えられた一方的なプレゼント”なのです…また、この”恵みに預かった人には、新しい使命が託される”というのです…”和解の福音を伝える務め”です。”世の人々は、神から、神との和解を頂いた人が、人と和解する姿を通して、神との和解(救い)の喜びを知るから”です。
私事ですが、先々週、三十年ぶりに、前父と再会して参りました。私は2才の時、実の父を、原爆の後遺症で失い、5才の時に、母が再婚し、山形から仙台の地へ移りました。そこで10年間にわたり、2人目の父から虐待を受けた事は何度かお証しさせて頂きました。その後、教会にひきとられ、その間、母が離婚し、そして再婚しました。私には3人の父がいるのですが、7度名字が変わったのは、2度目の父の時、余りの虐待に耐えかねて、母と家出して、米屋さんに住み込んだりした等の事情があります。
今年のお正月、その2人目の父から思いがけない電話がありました。「私を覚えていますか?今日は昼から、電話の前に座り、夜になるのを待っていた…あなたが牧師になったと聞いたので、電話を放り投げないで聴いて欲しい。私が、あなたの父であった10年間、殴ったり怒鳴ったりして申し訳なかった。許して欲しい」という耳を疑う電話でした。そこは涙の和解の場となりました。
そして先々週、30年ぶりに会った父は82歳になっていて、浦島太郎の気持ちが分かる気がしました。前父には性格や、話の内容には、昔の面影はありましたが、1人で老い、弱っていく寂しさが伝わって来ました。また頼っていた姪い子さんが、1ヶ月半前に肝臓癌で召された事や、父自身も3ヶ月前に軽い脳梗塞になり、また先月は、背中のこぶを除去する大きな手術をされたという心細さが、再会の喜びを大きくしたようでした。
再会した父は、最初に、妻や孫の前で謝罪して下さいました。それから、「どうして和幸を辛い目にあわせたのか」と語り出しました。”貧しさの中で人に捨てられて苦労した生い立ち、戦争で奪われた青春、それゆえ、お金しか頼れず、また厳しさしか、人と交わる術を持てなかった事”…。 父が変わったのは、最近だと聞いています。確かに、昔の面影は沢山ありました。少し前なら、見ていてトラウマが吹き出たかも知れません。(聖子先生はそれを心配していたそうです。私も2日前は緊張して眠れませんでした)。
しかし、私にとって、過ぎし一年は、神様から「和解の福音」を教えられ、体験させて頂き、癒された時でした。それゆえに、父を見て、昔を思い出しても、トラウマにはなりませんでした。
余談ですが…子供の頃、唯一楽しかった思い出は、ジンギスカンの鉄鍋を囲んだ事でした。
「あのジンギスカン美味しかったね。タレの作り方覚えてる?」と聞いたら、あの鉄鍋を持ち出して来て、「お前にやる」と…。
病気になって全てを整理した時、その鍋だけは捨てなかったのです。見れば、包んでいる新聞紙の日付は、離婚した直後のものでした。鉄鍋は私を一瞬に少年の時に戻しました。更に、父の痛みと愛を語ってくれる最高のプレゼントとなりました。
優しさや、情を表に出す面は昔の父には無い事でした。ある意味、父は180度変わっていました。昔の父から、優しくされる。また、「愛していた」と告げて頂く時が来るとは思ってもみない事でした…心
の底が癒される思いでした。いえ、今、癒されていると思います。
別れの日、フェリー乗り場近くの城跡(キリシタン大名の大友相隣の城)で、思いがけず、父と花見の時を持つ事が出来、思いの内を語り合う事も出来ました。「お前と会うのは最後だろう」と言い続けていた父が、いつの間にか「また、来いよ」と言っていました。私達が乗船して、手を振り別れの挨拶をした時、父も大きく手を振り続けながら、「また来いよ」と言い涙していました。初めて見た父の涙でした。
ある方が、「お父さんは、許される喜びを知ったんだね」と言って下さいました。そうであれば幸いですが、私にとっても、許され、愛され、受け入れられた時となりました。
最後に、お祈り頂いた伝道ですが、大きな一歩を踏み出せました。30年前は、教会に行っただけで殴られた事を思う時、礼拝後、「教会で待ち合わせしましょう」というお願いは大胆なものでした…しかし父は受け入れて下さり、教会まで迎えに来て下さいました。
S教会のI先生御夫妻が、父の手を握り暖かく迎えて下さり、父も喜んでいました。食事の祈りも、お墓参りの時も、父は一緒に祈ってくれました。旅の前夜に与えられた御言葉「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも、あなたの家族も救われます」を読み証する事も出来ました。
「自分は20歳の時、イエス様を信じて救われてから、お父さんの事を何とも思っていない(恨んでいない)事、そして、父からお電話を頂いた事も、私の救いの一つであり、お父さんの救いもここに続くんだよ」と…。あの父が、私の証を黙って聴いて下さったのです。
そして「ありがとう…」とサインした聖書をプレゼントして来ました。思いを超えた大きな伝道の一歩でした。お祈りありがとうございました。これからの伝道の為にもお祈り下さい。
Uコリント5:17−18「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しくなったのである。
しかし、全てこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、私達をご自分に和解させ、かつ和解の務を私達に授けて下さった」
私共は、”十字架という一方的な神の恵みにより、罪赦されて神との和解を頂きました。しかし、同時に新しい使命も与えられた”のです…”神と人と和解を伝える務め”です。”神に一方的に与えられた神との和解をもって、自分の言い分を捨て、人と和解して、神との和解(救い)の喜びを伝える”のです…この”赦し赦されて喜ぶ姿こそが、十字架の和解の福音を伝える伝道だから”です。