「 神の武具を身につけなさい」
エフェソ人への手紙6章10〜13節
◆悪と戦え
6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神の武具を身につけなさい」
エフェソ人への手紙6章10〜13節.2006年3月5日
今朝は、「神の武具によって強くなりなさい」という御言葉から、神の武具を身につけて強くなるという事を学んで参ります。重荷を負い喘ぎながら教会の門をくぐる人は、神の平安を求めておられます。
しかし、エフェソ(エペソ)人への手紙は、この手紙の最後に、”信仰が戦い”であると記しているのです。それは、使徒パウロが、どうしても最後に言わずにおれなかった事だからです。
”信仰生活が戦い”と言う事は、世の人々にとっては意外な事かも知れません。しかし、クリスチャンにとっては当たり前の事だろうと思います…実は、この手紙は、ここから”文章が命令形”になっているのです。強いる必要がある程、”クリスチャンが忘れがちな事だから”です。
では、”クリスチャンが忘れがちな事”とはなんでしょうか?…それは、”キリストを主と仰ぎ依り頼む生活”の事です。使徒パウロは、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と、エフェソの教会へ向けて語ったのでした。
私共は、神に反する世界に囲まれています。ふと、気がつくと、”キリストを主として生きる事がおろそかになっている”と気づく事があります。クリスチャンとして新しく生まれたから、自動的に信仰生活が保証される訳ではないからです…”神に反する力と戦わないと、クリスチャンの信仰の命が枯れてしまう”のです。
そこで使徒パウロは、”神に反する力との戦いの第一の命令”として、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と言ったのです…ある訳では、「主に結びついて強くなりなさい」となっています。原語のギリシャ語を直訳しますと、「主の中で強くなりなさい」となるのです。この”主の中で”と言うのは、”主によって生きて”という事でもあります。
更に続く言葉は、「その偉大な力によって強くなりなさい」となっています…ここの”偉大な力”という言葉は、原語では、”違った「力」という言葉を二つ重ねて、「主の力の力」”となっています。
そのように、「主イエスの中で強く〜なりなさい」と言うのです。ですから、それは、”主イエスから離れたら、その力がなくなってしまう”という事なのです…そうならば、”強いのは主イエスであって、私共ではない”のです。「戦う事が出来るのは、主イエスだけである」という事なのです。
確かに、”信仰の戦いは、現実の日々の中での戦いです。そこに主イエスの姿が現れて戦って下さる訳ではありません”。しかし、”主イエスは、御言葉を私共の心の内に語って下さるのです…”主イエスの御声を聴く者を、主イエスは支配し、神の力で守り導き戦って下さる”のです。神の国(神の愛と聖さと力による支配)で、守り導き戦って下さるのです。
私共が、今、心を注いで取り組んでいる事があります…”聖書を、主イエスの御声として聴いて祈る事”と、”礼拝の生活をする事”です。それらは、”何時も、主イエスの中にいる為”なのです。
11節に「悪魔の策略に対抗して立つ事ができるように、神の武具を身に着けなさい」とあります…この”「対抗して立つ為」と言う言葉も、「強くなりなさい」と言う字が使われているのです。使徒パウロは「強くなりなさい。悪魔との戦いの為に強くなりなさい」と繰り返して語ったのでした。
11節に至りまして、パウロは、”信仰の戦いの相手が誰か”を記しました。それは、”悪魔”でした。ローマ皇帝が敵というのなら分かりますが、悪魔が敵と聞きますと、「なんだ非科学的だな」と思われる方がおられるかも知れません…ある神学者が「あなた方は罪の重さを知らない」と言いました。犯罪なら誰が見ても分かりますが、”罪深さというものは、なかなか分からない”のです。
しかし、クリスチャンが罪と戦う時、罪がどんなにしぶとく、自分の心の奥深く迄、根を張っているかが分かってくるのです。と同時に悪魔の存在も分かってくるのです。
また、11節には、「悪魔の策略」とあります。クリスチャン、即ち教会は、”悪魔が手を換え、品を換えて襲ってくる事を経験”しています…聖書は、”主イエスが、救い主として登場する前、40日40夜、断食祈祷をされて悪魔の誘惑に勝利された事”を記します。
また、パッションという映画では,”主イエスが十字架に架かられた前夜にも、ゲツセマネの園の祈りで、蛇の姿をした悪魔から、執拗にからまれて
、十字架から遠ざかるように誘惑を受けられた事も描いて”いました…”主イエスの御生涯は、悪魔との戦いだった”のです。そして、”キリストは十字架によって完全に悪魔に勝利された”のでした。
このように、”罪と戦う者は、意志を持った悪魔が確かに存在する事が分かる”のです。
それゆえ、”使徒パウロは、クリスチャンに対して、エフェソ6章10節「悪魔の策略に対抗して立つ事ができるように、神の武具を身につけなさい」と言った”のでした。ある注解書に「対抗して立つ」という言葉は、「戦場で、自分の身を守る場所を確保する事」と書いてありました。そこを崩されたら、ずるずる戦線が後退して敗北する…そんな「譲れない場所を確保しなさい」、戦争ならば「死守する」と言う事です。
Uコリント12章9節に「すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とあります…”私共は、先ず、自分の弱さと脆さを徹底的に知る必要がある”のです…何故なら、”弱さや脆さを知る者だけが、神の武具を求める必要に気づく事が出来るから”です。
その”悪魔との戦い”を12節が語ります。「私達の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と…。これは、”人間相手の戦いではない”という事です。
”その戦いは、個人というスーケルでなく、神と悪魔との戦い”なのです。12節にある,”「私達の戦いは…」の”戦い”という言葉は、”白兵戦という字”が使われています。自分の安全が確保されている、上空から爆弾を投下するような戦いでなく、”神と悪魔の取っ組み合いの戦いに巻き込まれているのが、私共の戦い”なのです。
”私共には勝ち目はない戦い”です。”そうした壮絶な戦いに、私共の心の中も巻き込まれている”と言うのです。だからこそ、”神の武具が必要”なのです。
私共は、この悪魔に日々襲われているのです…自分の罪や過ち、不完全さを、誰かのせい、環境のせいにしている内は、「まだその人は自分の罪が分かっていない」のです。”言い訳している状況は、自分の心の底にあった罪を引きづり出したに過ぎない”と言う事が分かっていないのです。
たとえば戦争がそうです。人類の歴史が始まって以来。人類は戦争の悲劇を繰り返して来ました。戦争がいけない事は小さい子供でも知っています。しかし英知をもった指導者や大人達は、様々な状況下で、その状況を理由(言い訳)にして、戦争を決断して来たのです。”状況が、人の心の内にある戦争という狂気を引き出し続けて来た”のです。
そして、これからもそうに違いありません…同じ事が、私共の心に対しても言えるのです。赦す事が出来ずに怒り、与える事が出来ずに貪る。仕える事が出来ずに高ぶるのです。また口から出る言葉を制御出来ずに、罪を犯し続けているのです。
そうした「悪魔との戦いの為に身に付けなさい」と言われている”神の武具”という言葉には、”完全装備と言う意味”があります。”神の武具(キリスト)こそが完全防備の切り札”だと言うのです…だから、”悪魔に十字架で完全勝利されたキリストこそ、完全な神の武具と信じて、主イエスの中に身を置く”のです…それこそが”神の武具を身につける”と言う事なのです。
最後に、もう1度6章13節をお読みします。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つ事ができるように、神の武具を身に着けなさい」…「しっかり立つ」という事は、”敵の攻撃の中、身を守る陣地を確保する事”でした。
私共は、”十字架によって与えられた救いと信仰が、悪魔に罪を引き出されて奪われてしまわないように、自分の弱さを見つめ、同時に、十字架で悪魔に勝利された、キリストという神の武具の中に身を置いて行きたい”と思います。それが、主イエスの御声(御言葉)を聴く事。礼拝に生きる事なのです。それこそが、悪魔との戦いの中で勝つ為に、しっかり立つという事なのです。