「神の武具…その2(信仰の盾)…」
エフェソ6章16節
6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごと く消す事ができるのです。
コロサイ1章23節、
「あなた方は、揺るぐ事がなく、しっかりと信仰に踏み留まり、既に聞いている福音の望みか ら移りゆく事のないようにすべきである」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神の武具…その2(信仰の盾)…」
エフェソの信徒への手紙6章16節.2006.3/26
最近、信仰する事が戦いであると強調されなくなってきた気がします。しかし、”クリスチャンになるという事は、キリストの兵士となる事”でもあるのです。
救世軍という教団があります。信者を軍隊組織にして、年末に、”社会鍋”という伝道や社会奉仕をしている事で有名な団体です。教会を軍隊組織に模倣する事には一長一短があるかも知れませんが、信仰生活を戦いに見立てる点では、エフェソ書を読みますと間違っていない事が分かります。
先週は、悪魔と戦う為の、”6つの神の武具”の内の、”最初の3つ”について学びました。”正義と真理と平和”という”神の武具”でした。胸、腰、足を守りますと、殆どの武装が終わった事になります。今朝は、6章16節「なおその上に、信仰を盾として取りなさい…」について学びます。
「信仰の盾を取りなさい」というのです…「その上に」とあります。神の武具の上に信仰の盾を載せるのです…どうやって載せれば良いのでしょうか?…この言葉を、原語通りに訳しますと、「これら全ての物の中に信仰の盾を取りなさい」という事なのです。
さて、ここに、大切な言葉があります…「信仰を盾として取りなさい」の後半にある「取る」と言う言葉です。先に学んだ3つの神の武具は、「身に付ける=信じて受け入れる」事によって与えられる”防御の武器”でしたが、ここ至りまして、「積極的に取りなさい」と、”攻撃の武具”について語り始めるのです。
ある説教者は、この「取る」という言葉を、「あてはめる事である」と言いました…”信仰生活は礼拝だけでなく、全ての出来事に、信仰を当てはめて生きる事”だからです。
この箇所では、信仰を”盾”と言います。盾は火の矢を防ぐ為に用います…”悪魔が象徴する罪の誘惑は、火の矢のように襲いかかるものだから”です。罪というのは、単なる過ちや失敗という次元でなく、もっと〜深い所で、根強く人を襲い続けるものなのです。
Tペテロ5:8には「あなたがたの敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っている」ともあります…”キリストから引き離そうとする悪魔の誘惑は、吠え猛る獅子のように、獲物を求めて歩き回っている”のです。だからこそ”弱い人間には、それを防ぐ信仰という盾”が必要なのです。
聖書は、天地創造に続いて、罪の起源について記します…アダムとイヴが罪を犯して堕落した事を。”神の下から家出したと捉えています…それは、神無き自己中心の世界に生きる者となってしまったと言う事”なのです…その結果、人は神なしの人生、神なしの欲望に支配される者となってしまいました。
”罪”という漢字が、その事を良く言い表しています…聖書の言う”罪”は、犯罪の事ではありません…”罪”という字は、”目という字が横になって上にあります。「目が正しい所に非ず」と書いて罪”なのです。「神を見上げていない」事が”罪の本質”なのです。
そして、”人が、”神を見上げず、神を心から閉め出す”という原罪に支配されているという事は、とても〜深刻な事”なのです。何故なら、どんなに科学が進歩しても、社会が成熟しても、”人の心に、神を閉め出す自己中心の罪がある限り、人は自分が犯した罪の結果を刈り取る人生から解放されない”のです。また神を閉め出した社会にも平和は来ないという事だからです…私共は、そういう”強力な、悪魔の襲撃に引きずり回されている事を知らなねばならない”のです。
如何に、私共が、”神を閉め出した罪に生きているか”を考えてみます…たとえば、”疑い”です…それが、”神を見ていない疑い”であれば、”その疑いは罪を生む”のです。
だとすれば、”恐怖”もそうです。”恐怖”の多くは、”神を信頼しない事から生まれ”ます…であるならば、”恐れる事”は、”弱さではなくて罪になる”のです。
また、”想像の中にも罪が生まれ得る”のです…”神を信頼しない想像は、悲観を生み、共にいて下さる主を悲しませる”のです…このように、”行為としての罪は犯していなくとも、人は罪に染まり、罪に支配されている”のです。
私は、この説教の準備をしていて、この事に気づいた時に、自分の罪深さが恐ろしくなり、この箇所から説教する事が恥ずかしい、逃げたいとさえ思いました。たとえば、今、始めました結婚式の司式の事です。
チャペルが新しくなった事を機会に、質の高い結婚式を目指すという方針が打ち出されて、本物の牧師を招く事、牧師が結婚カウンセリングをする事、聖歌隊、奏楽者などのスタッフの維新など、結婚式のプログラムを新しく構築する所から関わらせて頂きました。
私は、生い立ちに起因すると思うのですが、人前で話す時に口が渇きます。口が渇くというのは小さな事かも知れませんが、結婚式の司式は半分を講壇の前で行いますので、水で下を潤す事が出来ません。まして、こうした重責の中では深刻な問題です…牧師であるのに、話す事に恐怖を覚えていたのです。皆さんにも、緊張が伝わり、ご心配頂きお祈り頂きました。
最初の司式の数日前、O姉を訪問した際に、キリストが、その姉妹の口を通して2コリント12:10口語訳を語って下さいました。「だから、私はキリストの為ならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。」…”キリストに信頼しないのは罪であると教えられた、その直後にキリストが語って下さった、「私が弱い時にこそ、私は強いからである」という御言葉を聴いた時、私達の中で、不安にキリストへの信頼が打ち勝った”のでした。
そして皆様の背後で祈りによって、ホテルでありながら、教会で挙げているような主の臨在を感じております。この”経験は、如何に自分の心が、主イエスを心から閉め出している事、不安、恐れの罪というものに支配されているかを教えられた時”となりました。同時に思わせられた事は、この罪は私共の日常にも、深く根を降ろしている事でした。
ヘブライ人への手紙4章2節に「私達にも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかった為です」とあります…”信仰によって、キリストの言葉が生活に結び付かなければ福音は役に立たない”のです…”全ての出来事の中で、主イエスの御言葉を聴き、信仰によって、主イエスと共に乗り越えていく”と言う事なのです。
今朝の礼拝を最後に、進学の為、旅立つY姉がおられます…送り出す側は心配ですので、「羊を狼の中に送り出すようなものである」と言う主のお言葉を思い出しています。Y姉自身も心の中も、不安と期待が渦巻いていると思います…どうぞ、”新しい地でも、教会生活を土台にされて、不安や恐れの中,信仰の盾であるキリストを見上げ、キリストに拠り頼んで、神無き不安や恐れに勝利して頂きたい”と祈っています。
さて、この”盾”ですが、それは、”信仰”という事でした…しばしば、「私の信仰は小さいので」と謙遜する言葉をお聞きします。分かる気がする言葉です。誰にも自分の信仰に確信が持てない経験があるからです。しかし、”信仰は、自分の信じる力の事ではない”のです。
私共は、”ただ信じるだけで救われ”ました。人類がどんなに、律法を守って努力しても預かる事が出来なかった救いに、信じるだけで預からせる力が信仰にはある”のです。ですから、”信仰の力”というのは、”私共の信ずる力ではなく”、信じている対象…つまり、”主イエスに力がある”のです。
その”イエス・キリストを、知っていなければ委ねて力に預かる事が出来ない”のです。人を本当に知るには、写真よりも、先ず、”その人の話を聴く事の方が大切”です…”人格と心が言葉になるから”です。”主イエスを知るのも同じ”なのです…”主の御声を聴く事に尽きるのです。人は、主イエスの御言葉を聴いて聖霊の確信が与えられる時、はじめて主に拠り頼む信仰が与えられる”からです。
アメリカの南北戦争で、リンカーンが率いていた北軍が、全滅一歩手前まで行った時、副官がリンカーンに、「閣下、神様はもう我々に味方して下さらないようです」と言いました。それに対してリンカーンは、「神様は何時も、私達の味方です。私達が神様の味方になっているかどうかが問題です」と言ったのです。
そうなんです。”私共が信じる神は、罪人の為に、独り子まで下さって、その血潮の犠牲によって、罪人を救い永遠の命を与えて下さった神様なのです。私共が全ての出来事の中に信仰を持つならば、神は必ず味方となって下さる”のです。
コロサイ1章23節には、「あなた方は、揺るぐ事がなく、しっかりと信仰に踏み留まり、既に聞いている福音の望みから移りゆく事のないようにすべきである」とあります…ここにある、「神を見上げ、神を心から閉め出さず、聴いている福音、信仰によって神から離れない」という一時の中にだけ、”悪魔を振り払う力を受ける道がある”のです。