神の武具 ・・・その1・・・

エフェソ6章14〜15節

6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
神の武具 ・・・その1・・・


エフェソ6章14〜15節、2006.3/19

 先々週、エフェソ人への手紙の6章10節〜13節を通して、人は皆、神と悪魔との戦いの中に巻き込まれている事を聴きました。そして、また、その悪魔がどんなに強敵であり、”キリストと言う神の武具を身に付けずには、人には勝ち目がない事”をも学びました。

 今朝、共に読みました14〜15節には、”キリストという神の武具が、一体どのようなものなのか?また、どのように身に付けたらよいのか”について語られています。

 このエフェソ6章には、”6つの武具”の事が書いてあります…今朝は、先ず始めの3つについて学んで参ります。14〜15節「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」…”真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げる履き物”と”3つの武具について記しておりますが、これらは、直接身につけるもの”…つまり、”決断して受け入れ、身に付けるもの”なのです。

 先ず、”強敵である悪魔”について考えて参ります…”悪魔は罪への誘惑という形”で私共に戦いを挑んで参ります。人間は、悪魔に対しては、全く無力ですので、”神の武具を身に付けるという事は、神に戦って頂く以外にない”のです。

 13節に「よく抵抗し、完全に勝ち抜け」とあります…この”「完全に勝ち抜け」”と言うのは、「何時、どんな時でも、神の武具である、主イエスに戦って頂けるように、主イエスの下にいなさい」という事なのです。この姿勢が中途半端ですと、必ず悪魔に敗北をきする”のです。ですから、Tコリソト16章13節にも、「目をさましていなさい。信仰に立ちなさい…。」とあるのです。

 ”目を覚ましているという事は、注意して、目を配っている事”です。敵を見張る事が、戦いに勝つ第一歩だからです。昔、テレビで忠臣蔵の裏話を紹介していました。

 忠臣蔵は、主君の仇を討つ為に、大石内蔵助率いる四十七士が、吉良上野介邸に討ち入った事件です。見事、主君の仇敵である吉良上野介の首を討ち取った後、切腹させられたので、日本人の心を掴み語り継がれて参りました。

しかし、その番組は歴史の表舞台に出なかった義士…もし吉良上野介が逃げ出して、領地であった米沢(山形)藩に行った場合に備え、日本海側のある峠に見張りを置いていたという説を紹介していました。聞きながら、大石内蔵助ほどの人物ならば、見張りを置いていたと考える方が自然だろうと思いました。

 戦いに勝利を治める為には、見張りの必要があるのです…同じ事が、”罪との戦いに於いても言える”のです。

 ”罪との戦いの戦法は、二つ”あります。”一つは、罪に負けない”という事です。そして、もう一つは、”罪を滅ぼす”という事です。”悪魔を滅ぼす”という方が分かりやすいかも知れません。

 ”キリストに救われた者”は、この”罪に勝つ力をも与えられた者”なのです。ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」…”何時、どんな時も、この御言葉に立って生きる時、”十字架で、悪魔に勝利されたキリストに戦って頂ける者とされている”という事なのです。

 私共キリスト者は、”信仰によって、既にそうされている自分を、神から受け取り続けて悪魔に守られ、悪魔に勝つ事が出来る”のです。それこそが、”キリストという神の武具を身につけるという事”なのです。

 さて、第一番目の武具は、「真理を腰にまといなさい」です…この「腰を固めなさい」と言う事が最初に出て来るのです。武道やスポーツで型を習いますと、よく「腰が入っていない」と注意されます。腰が動きの土台だからです。腰が入っていないと力が入らないので闘う事が出来ません。

 お一人で伝道されている先生が腰を痛められ、食事もとれずお風呂も入れないとお聞きしたので、コルセットをプレゼントした事がありました。コルセットを付けると動く事が出来るのです。コルセットを付ける事は帯を締めると同じ事です。聖書は、その”大切な帯”を、”真理という”のです…”真理は、聖書が教えている事”です。それを整理したものを教理と言います。

 ”信仰生活と言うのは、真理を聴いて、真理を信じ、真理に生きる生活”です…真理を建前として聴く人々もおりますが、”信仰生活において建前と本音が違うと神の力を受ける事が出来なくなるので、非常に危険な事”なのです。

 この教会に遣わされて参りまして、初めてお聞きした言葉がありました。「献金が出来ないので教会に行けません」という言葉でした。悲しく思いました。その方々は、”レプタ2枚の物語”をどう聴かれているのでしょう?…私は、それは献金の問題ではなく、”真理をどう聴いておられるかの問題”だと思いました。”真理に聴く姿勢に裏表があると、人は必ず悪魔に負けてしまう”のです。

 Uテモテ2章18節「彼らは真理から外れ、復活は既に済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰を覆している」…”教会は、いつの時代にも、こうした真理に反する教えと命をかけて戦って”来ました。”もしこの真理を見失ってしまったら、悪魔と戦う力がなくなってしまうからです。ですから、宗教改革者カルヴァンも、「我々が福音の教理によって訓練された時に、はじめて正しくこの世を歩む事ができる」と言ったのです。

 また、真理の帯を締める信仰生活は、”感情に生きる信仰生活をも否定”します…何故なら、感情を土台にした信仰生活は必ず揺れ動くからです。聖書の言う真理の中心は、”キリストの十字架と復活による神の救い”です。この事を見上げ続ける姿勢が曖昧になりますと、暗闇の中を歩む時、感情が神の愛も見えなくしてしまい、その結果、十字架の神の愛が見えなくなってしまうのです。

しかし、”真理を土台にした信仰生活は、感情に左右される事から、私共の信仰を守る”のです。

 第二の神の武具は、”正義の胸当て”です…”正義”も、”神の武具”なのです。この、”正義”というのは、”敬虔な聖い生活”という事です。私共、”ホーリネス信仰に生きる者達の生活”です。

 この”敬虔な生き方も、心臓を守る胸当てにたとえられている神の武具”なのです。しかも、この”正義という神の武具は、打って出る武器ではなく、守る武具”なのです…もし、打って出る武具として用いますと、先週お話しした、姦淫の女を吊し上げにした、律法学者やファリサイ人のように、”神しかつけない審きの座に着いて人を裁く者となってしまう”のです。

 人の内には、”聖さ”はありません。”聖さは、神から受けるもの”なのです。先ほども申しましたが、ガラテヤ2:19−20「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」…この、”信仰だけが、自分を通して、内なるキリストに生きて頂き、そのキリストの聖さに生き、キリストの聖さを現す事を可能にする”のです。

 先週、聖会のテープを聴かれた方から、お葉書を頂きました。「悔い改めて、更に主に喜んで頂ける生き方をしたいと思います」という敬虔な内容でした。正に、”敬虔さは、その人の内におられるイエス・キリストを指し示す”ものだと思わされました。

 ”敬虔さは、心の内のキリストが現れている姿”なのです。そして、”自分をキリストに明け渡している人を、キリストは、覆い、守る事が出来る”のです。

 第三の神の武具は、”平和の福音を告げる準備の履物”です…腰と胸の次は足です…当時の人々にとって、歩く事イコール生活でした。従って、”足に平和の福音を告げる準備を履物として履く”という事は、”福音を伝える備えをする生活”の事でした…何故なら,”私共は、伝道する時に、信仰が燃やされ、また伝えた福音によって人々が、救われ生かされるのを見る時、信仰の確信が与えられるから”です。

 また。ここでは福音を、”平和の福音”と言います…この「平和」は、イスラエルの挨拶の言葉「シャローム」です。これは、”神との平和による平安”です。”罪赦され、神と和解した者に与えられる神の平安”の事です。反対を言えば、「不安」の根源は、「神に背いている」事にあるのです…”キリストの十字架の罪の贖いは、神との和解を与えて下さる為だった”のでした。

 ”十字架によって、自分の罪が赦され、神との平和が回復し、神の愛が分かるようになった時に与えられる”のが”平安”なのです。そして、”伝道は、その神の平安を伝える事”なのです。

 神との”平和の福音を伝え、信仰が燃やされ、信仰の確信に立っている人に対して、悪魔はつけいる事が出来ない”からです。だから、「何時でも、福音を伝える準備をしていなさい」とパウロは言ったのでした。

 私共が、混じり気の無い心で、”キリストという神の武具を身につける時、キリストは、私共を覆って悪魔から守り、代わりに、悪魔と戦い、悪魔と罪に勝利して下さる”と、このエフェソ書は約束しているのです。