「誰が石を投げるのか?」
ヨハネによる福音書8章1〜11節
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「誰が石を投げるのか?」
ヨハネ8章1〜11節.2006.3/12
今朝は、ヨハネによる福音書8章1〜11節の、”姦淫の女”と呼ばれる箇所から、共に神の言に耳を傾けて参ります。
日本では神社、仏閣の周りに遊郭があります。人間の心が、自分の欲望の為に働く神を造り出したのが偶像ですから、そうした神々を参拝した帰りに、欲望を満たして帰るからでしょうか?特に、祭りの季節には性道徳が乱れると言われます。
それは外国でも同様なようです。リオの力−ニバルで有名なブラジルの謝肉祭の直後には、父親がわからない子供が沢山生まれると言います。当時のユダヤ教も、信仰の命を失っておりましたので、形骸化し、その結果、仮庵祭も、偶像礼拝のように堕落し、性的な罪の温床となっていたのです。
そのような状況下で、この姦淫の現場にいた女が捕えられたのです。律法学者やファリサイ人達は、「このような女性は、”石で撃ち殺すべきだ”と律法に書いています」と言って、この女性を主イエスの前に連行して来たのでした。という事は、この女性は、夫がいるか、婚約中だったという事です。
8:5〜6に「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった…。」とあります…正義を掲げた、”ユダヤ人達の質問は、実の所は、イエスを訴える罠だった”です。
一つは”政治的な面からの罠”でした。当時死刑の権限は、イスラエルを支配していたローマのみにありましたので、もし主イエスが、「死刑にしなさい」と言えば、”ローマへの政治的反逆者として訴える事ができた”のです。
もう一つは、”宗教的な面からの罠”でした。主イエスが「赦しなさい」と言えば、律法を無視した事になり、”主イエスを律法への違反者として訴える事が出来た”のでした。
「人を愛し、罪人を赦しなさい」と教えて来た主イエスが、「死刑にしなさい」等と言う筈がありませんから、これはカイザルヘの税金の質問(マルコ12:13〜17)と同じ”完璧な罠”だったのです。
正義を盾に姦淫の女を裁き、主イエスをも裁き陥れようとしている、この律法学者やファリサイ人の姿は、パウロの言葉を借りれば、ロ−マの信徒への手紙2章1節「他人を裁く事によって自分自身を罪に定めている。裁くあなたも同じ事を行っているからである」と言う、”神が一番嫌われる姿”でした。何故なら、”神の座について人を裁く人の姿”だからです。彼等の姿は、その罪そのものでした。
しかし絶体絶命の罠に陥れられた、主イエスの行動は、とてもユニークでした。その突飛さゆえに、読む人の心を惹き付け、その意味を考えさせて来たのです…それは、「かがんで、指で地面に何かを書き始められた」というものでした。そこで共に、”この主イエスの行為の意味を考えて参りたい”と思います。
これに関する諸説を幾つかご紹介します。@人々の良心に語りかける天の声を聞かせる為の沈黙。A彼らに罪を悟らせる御言葉を書いていた。B地面に書くという行為は、すぐ消せる事から、”神の赦しという事を示唆”していた。C神が御顔を背けられている事を表していた。”対話の拒否や存在を無視する事は、最も厳しい神の裁き”だから。D中に立たされた”女への視線を逸らし、自分へ向けるため、黙って女の罪を負われる姿を示唆していた”等があげられます。どれも多くの示唆に冨んでいます。そして、どれも当たっていると思うのです。
”かがんで沈黙し地面に指で何かを書き続ける主イエス”を見下ろしていたユダヤ人達は、勝利感に酔いしれて、石を握り締めていただろうと思われます。しかし彼等には、さらし者にされながら恐れ震える、この女性に対する憐れみの情は微塵もなかったのでした。
その時、主イエスは7節の言葉を語られました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」…「罪のない者」とは、妬みや憎しみ、そして大きな罪だけではなく、これと「同じ罪」(情欲)でありました。沈黙の中、”ユダヤ人達は、老齢者から去って行きました。それは、若者の方が罪深さの自覚が薄いから”と言われています。
”律法は罪を裁きます”…この場合なら、”律法は石打による死刑の宣告”を言い渡す他ありませんでした。罪人である人が、人に対する審き主になる時、そこには、罪人への愛や憐れみや痛みが無くなるのです。しかし、”救い主は、罪を赦す”のです。しかし、それは簡単な事ではなかったのでした。
この女性が犯した罪の為、追い詰められた主イエスは、”頭を垂れ顔を伏せておられた”事を忘れてはなりません。この主イエスのお姿を見つめる時、自分達の罪が、どんなに主イエスを追い詰めている深刻なものであるかを知る事が出来るからです…事実、”私共1人〜の罪が主イエスを十字架まで追い詰めた”のです。
また、”私共が日々犯してしまう罪も、主イエスに犠牲を強い続けている事を覚えたい”のです…先日、二年連続、甲子園で優勝した高校で、卒業式を終えた卒業生が居酒屋に行って、飲酒喫煙をして補導され、もうじき始まる春の選抜甲子園の出場を辞退したというニュースを聞きました。
関係の無い後輩が犠牲になったのです。それだけでなく、監督や部長、そして校長まで責任をとって辞職したという事でした。そのニュースを聞きながら、「誰かに罪の責任をとって頂くという事は犠牲を強いる事」だと思わされたのです。
主イエスは、この女性に、”「私もあなたを罪に定めない…」と赦しの宣言”をされました。しかし、その主の心の中には、「私があなたの罪を負って、あなたの身代わりに十字架に架かるよ」という言葉があったのです。
実は、”私共も、日々、主イエスに犠牲を強いている”のです…”主イエスは、日々、十字架で流された御血潮を神にお見せになって、神に私共の罪を執り成して下さっている”のです。それは、”日々、十字架を追体験して下さっている事”でもあるのです。
皆が去って行き、女性と主イエスにだけなりました。ある説教者は、「この女性だって、人々が去ったその後で、足音を忍ばせて行けば、出て行けた筈だ。それなのになぜ出て行かなかったのか?」と問われました。”この女性は、主イエスだけは真実に自分を裁く事ができる御方だと悟ったのではないでしょうか?
だから、その場所に留まったのだ”と思います…”人の心を知り、痛む愛をもって、人の罪を負い、そして赦し、また審く事が出来るお方こそが主イエス”なのです。
祈祷会で聖子師が、「心の中で、罪や罪深さを本当に自覚した人は、許されたいと思うよりも、裁きを受けたい。しっかり刑に服して罪を償い出直したいと思うと思います」と言われました。本当にそうだと思いました。
”主イエスの審きを受けようと主の前に留まった”、この女性は、”ヨハネ8章11節で主イエスが言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」という主の御言葉の意味を悟った”のでした。”主イエスが十字架に架かられた時、遠くから見ていた女性達がいたと福音書は記して”います。
この女性は、遠くに十字架を見ながら、”自分の罪が主イエスを十字架に架けた事。また十字架で自分の罪を負う決心をして、赦しの宣言をして下さった事を思い出しながら見ていた”に違いないと思います。
一方、”罪を認めず、審き主なる主イエスの御前から立ち去った、ファリサイ人や律法学者達は、主イエスこそが、救い主だと悟る事が出来ずに、十字架に架けてしまった”のでした。勿論、”その結果、十字架の意味をも悟る事が出来なかった”のです。
罪を審く事が出来る唯一の御方、罪無き主イエスは、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われたのです…しかし、そこには、「あなたの罪を全て負うよ。だから、これからは神と共に歩みなさい」と言うメッセージが込められていたのでした。
私共も、この女性のように、”主イエスの赦しには、憐れみと、痛みの愛がある事を深く悟り、罪から離れ、神の愛の中を歩んで”行きたいと思います。