命のパンとして立たれた救い主

ルカによる福音書4章1〜4節
4:1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

ヨハネ6章35節
「イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
命のパンとして立たれた救い主
                   

  
           ルカによる福音書4章1〜4節.ヨハネ6章35節。2006年.2月26日

 先週までは、”使徒言行録より聖霊について”学んで参りました。今週からは、数週間にわたり、”聖書(御言葉)について”学んで参ります。

 主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である」という天からの声がありました。これは、”イエスこそキリスト(救い主)という徴”でした。

 そして、その後、”主イエスは救い主として、この世に現れる前に、荒野で悪魔に誘惑された”のです。しかし、”聖霊は、この悪魔による荒野の誘惑さえも用いられ、主イエスが、命のパンという救い主として立つ決心へと導かれた”のでした。

そのように見ますと、”この荒野は、悪魔によってではなく、御霊に導かれた所だ”と分かって参ります。ですから、私共は、”試みを受けた時、苦しみもがいても良いのですが、「その所は聖霊に導かれている所という事を忘れてはいけない”のです。

 ”主イエスは荒野で、四十日、四十夜断食をし、そののち空腹になられました…主イエスが荒野で四十日間断食された”のは、”モーセが四十年の荒野の旅をした事と重ねた行為”だと思われます。

旧約聖書の出エジプトの時、モーセに率いられたイスラエルの民は、奴隷の地エジプトから救い出され、荒野を”四十年間彷徨い”ました。また、預言者エリヤは、神の山に行くのに、四十日の旅をしました。

 このように”旧約聖書には、四十年、四十日”という言葉がよく出て参ります。そして,この言葉が出て来る時は、必ず”試みの時”を指しているのです。しかし、それはまた、”救い”という”神の啓示を受けた時”でもあったのです。

 使徒言行録13章18節で、旧約聖書の出エジプトの事を、「神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び」とあります。口語訳では、「荒野で彼らをはぐくみ」となっています。パウロは、”イスラエルの民が荒野の試みを受けた時の、「はぐくみを受けた」と記した”のです。

ヘブライ人への手紙12章8節には、「もし誰が受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(私生児)であって、実の子ではありません」ともあります…日本にも、「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」という言葉がありますが同じ事です。聖書は、「あなたが試みを受けている時は、父なる神が、あなたを我が子としてはぐくんでいる時だ」と言うのです。

 現代は、「できるだけ損はしたくない。苦しみを避けたい」と思い、楽な事、楽しいだけを追い求めている時代です。それは自然な欲求かも知れません。しかし、信仰までそうした現代の感覚に染まってしまいますと、マタイ11章28節に「全て重荷を負って苦しんでいる者は〜休ませてあげよう」とある、”そこに留まってしまうだけで、続く”マタイ11章29節にある「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」という事を忘れてしまう”のです。

 ”キリストの救い(罪の赦しと平安)に預かるだけで、キリストのくびきを負う事から逃げてしまう信仰となってしまう”のです。

 では、”キリストのくびきを負う”とはどういう事でしょうか?…それは、”聖書を読む、祈る、礼拝を献げる、キリストの体として頭なるキリストの言葉に聴き従う、自己犠牲の愛に生きる、自分の十字架をキリストに共に担って頂きながら負い続ける事”などです…”私共の信仰が、キリストのくびきを負うものとならない時”、そこに”神を愛するゆえの試練はなく”…その結果、”神が愛して下さっている事まで分からなくなってしまう”のです。

 私たちの”信仰”は、”修行して救いを求める探究の信仰でなく、「啓示の信仰」”と言われています…”神から与えられた救いや聖霊(神の啓示)を受けとるものだから”です。ここで、しっかり心に刻んで頂きたい事があります。それは,”神は教会に救いと聖霊を与えて下さる”と言う事です…だから、”人は教会という葡萄の木につながっていなければ、神の恵みを受け取れない”のです。

 しかし、その”恵みを受けとるのは、教会という葡萄の木につながっている一つ一つの葡萄の房=教会という共同体につながっている個人〜”だという事です。”誰もそこには介入出来ません”。牧師といえども、”誰かに代わって、神の恵みを受けとり手渡してあげる事は出来ない”のです。

 16世紀の宗教改革で、プロテスタント教会がカトリック教会に対して改革した事の1つに、”免罪符の廃止”がありました。”免罪符というのは、カトリック教会が認めた聖人が、人生で天に積んだ宝を点数にして百点以上だった場合、その百点を超えた分の点数を、他の人がお金で買って、自分の人生の点数に足して、天国への合格圏へ達するという制度”でした。しかし、ここには重大な間違いがありました。

 ”人は皆、罪人なので、百点を超える者などいないという点”と、”神の恵みは、誰かが受け取ったものを貰う事は出来ないという点”です…人は皆、天国に帰る、その日まで。”神の愛の試みの中で、練り聖められ、永遠の命を受け継ぐ者と変えられ続ける”のです。

 荒野における悪魔の最初の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というものでした。それに対して主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある」と言われたのです…口語訳ですと「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」となっています。こちらの訳の方が良く伝わるかと思います。

 この「人はパンだけで生きるものではない」という言葉を、「人間は肉体のパンと、共に魂の糧も必要だ」と説明される方がおります。しかし、それでは浅い理解ではないかと思うのです。

 ヨハネ6章35節に「イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない」とあります…”主イエスの「人はパンだけで生きるものではない」という宣言は、石をパンに変えて、人々の御利益願望を叶えて賞賛を受ける救い主になる事を捨て、「人々の魂を救い養う命のパンになる」という宣言”だったのでした。

 創世記一章3節に「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあります。”神の言葉には、天地を創造した力がある”のです…また、”主イエスがラザロに「出て来なさい」と言われた時、死んで四日もたったラザロか生き返った”たように、”神の言には命もある”のです…”イエス様は、「私という命のパンには、神の命と力がある、あなたの救いの為には、私という命のパンが必要なのだ」と言われていた”のです。

 忙しさや疲れの中、命の言葉を慕い求める余裕が無い事もあります…ですから、「人はパンのみで生きるものではない」という御言葉を聴く時、”誰もが問われ、心に痛みを覚える”のです。神様は、そんな私共の弱さを良く分かっていて下さいます。ただ忘れてならない事は、”これは、主イエスが、いかなる救い主として立つかを、悪魔の誘惑と戦いの中で決断された箇所”だったと言う事です…クリスチャンは、この”主イエスのご決断を聞き流してはならない”のです。

 キリストは、四十日の断食により、飢えの厳しさを知り、飢餓の悲惨を知った上で、”神の力を用いて、石をパンとする奇跡をなす、救い主である事を捨てる決心をされた”のでした。しかし、今も、肉体の必要を解決する救い主を求めている人が多いのが現実です…特に、日本人が宗教に求める救いは、殆どがその次元です。

 いえ、”教会さえも、キリストに御利益を求める誘惑を受けている”のです。そうした誘惑にあった時、”クリスチャンも、キリストのように誘惑に対して宣言する”のです…”自分自身に対して、教会に対して、世に対して宣言する”のです。「私の罪を赦して、私の魂を救い、私の心を神との平和で満たし、神の臨在の下に導く、命と力があるのは、私を命のパンで養うイエス・キリストしかない!」と…。

 そうした言葉は、”現実の戦いの中で、命のパンであるイエス・キリストの言を聴き続け、神の命と力に預かっていてこそ出てくる”のです。

 土居教会には御家族の救いの為に、御言葉の約束を握って、心を注いで祈り続けておられる方々がいます…”聖書の言葉は、私と神との契約の言葉”なのです…”契約は信じて守り通した者だけが、その約束を受け取る事が出来る”のです。

 私共が、”神の言を信じたならば、神は、神の真実にかけて、その約束を守って下さり、私共は、現実の中に働く神の力を経験する事が出来る”のです…”信仰に生きるとは、御利益でなく、私の魂を救う力と命がある、命のパンを慕い求めて下さい。「神の国と神の義を求めるなら全ての者は添えて与えられる」からです。
 人間の欲を求めて応えられるという信仰ですと、人生が歪み狂って参ります。聖書は、「先ず神を求めなさい」と言われるのです…神に備えられ与えられていきますと、人生が祝福されていくのです。

 そして、この神の言の約束を信じて、その成就を体験して行く事こそが、命のパンである主イエスを食べて行くという事”なのです。