「 異邦人にも注がれた聖霊」
使徒言行録10章9〜48節
10:9 翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。
10:10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。
10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
10:16 こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はなんの事だろうかと、ひとり思案にくれていると、ちょうどその時、コルネリオから送られた人たちが、シモンの家を尋ね当てて、その門口に立っていた。
10:18 そして声をかけて、「ペテロと呼ばれるシモンというかたが、こちらにお泊まりではございませんか」と尋ねた。
10:19 ペテロはなおも幻について、思いめぐらしていると、御霊が言った、「ごらんなさい、三人の人たちが、あなたを尋ねてきている。
10:20 さあ、立って下に降り、ためらわないで、彼らと一緒に出かけるがよい。わたしが彼らをよこしたのである」。
10:21 そこでペテロは、その人たちのところに降りて行って言った、「わたしがお尋ねのペテロです。どんなご用でおいでになったのですか」。
10:22 彼らは答えた、「正しい人で、神を敬い、ユダヤの全国民に好感を持たれている百卒長コルネリオが、あなたを家に招いてお話を伺うようにとのお告げを、聖なる御使から受けましたので、参りました」。
10:23 そこで、ペテロは、彼らを迎えて泊まらせた。翌日、ペテロは立って、彼らと連れだって出発した。ヨッパの兄弟たち数人も一緒に行った。
10:24 その次の日に、一行はカイザリヤに着いた。コルネリオは親族や親しい友人たちを呼び集めて、待っていた。
10:25 ペテロがいよいよ到着すると、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝した。
10:26 するとペテロは、彼を引き起して言った、「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」。
10:27 それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。
10:28 ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。
10:29 お招きにあずかった時、少しもためらわずに参ったのは、そのためなのです。そこで伺いますが、どういうわけで、わたしを招いてくださったのですか」。
10:30 これに対してコルネリオが答えた、「四日前、ちょうどこの時刻に、わたしが自宅で午後三時の祈をしていますと、突然、輝いた衣を着た人が、前に立って申しました、
10:31 『コルネリオよ、あなたの祈は聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている。
10:32 そこでヨッパに人を送ってペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は皮なめしシモンの海沿いの家に泊まっている』。
10:33 それで、早速あなたをお呼びしたのです。ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです」。
10:34 そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、
10:35 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
10:36 あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
10:37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
10:38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。
10:39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。
10:40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、
10:41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
10:42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
10:43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
10:44 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。
10:45 割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。
10:46 それは、彼らが異言を語って神をさんびしているのを聞いたからである。そこで、ペテロが言い出した、
10:47 「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
10:48 こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、なお数日のあいだ滞在してもらった。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「異邦人にも注がれた聖霊」
使徒言行録10章9〜48節.中心聖句45−46節、2006年2月19日
この章には異邦人コルネリウス(コルネリオ)の救いの記事が記されています。異邦人の救いは,ここから始まります。
ユダヤ人は、おそらく私共の想像する以上に異邦人との交わりを拒んでいました。異邦人に触れたら、汚れが自分に及ぶと言って、自分の聖さを保つ為に異邦人から離れていたのでした。
主イエスは、そういうあり方を大胆に改革していったのです。「離れる事が主イエスの弟子の生き方ではない」という思いを込めて、”ご自分の弟子達に使徒という名をつけられた”のでした。
”使徒”と言う言葉には、”遣わされた者”という意味があります…”クリスチャンは、世から逃げ出す者でなく、世に遣わされる者というのが主イエスのお考え”でした。
”主イエス御自身、世に遣わされる者として生きられました”…そう生きる為に、主イエス御自身が大切にされた事は、”退いて祈る事”でした…”人を避け、一人になられて神に祈られた”のでした…”出かけていく為に、遣わされる為に退いた”のです。木が高く伸びる為に根を深く張るように、”福音を伝える為に、退いて一人、主イエスの御声を聴いて祈る…この、主イエスとの交わりが、クリスチャン生活の根幹”なのです。
遣わされていく教会の事を、”散らされて行く教会”とも言われます…教会、即ちクリスチャンは、教会堂の中だけで信仰生活を守っているものではありません。散らされた所、即ち、”礼拝から遣わされていく所に、散らされて行く日常生活に福音を携えて行く”のです。
”私共は、教会の門を出たら福音の証人なのです。ですから、教会の門を出た途端、損得に生きる世の人や、感情の奴隷に戻ってしまってはいけない”のです。主の御言葉に聴き従う者として出て行くのです。
日本において、”クリスチャンは付き合いの悪い人間の代名詞”でした。その結果、日本ではクリスチャンが社会から浮き上がってしまったのです…私共が、世から浮き上がった堅苦しいクリスチャンでなく、自然体で柔らかい人でありつつ、主の証し人として福音を伝える器となる為には、どうしたら良いのでしょうか?
”キリストの御声を聴いて、祈ってキリストと交わり、キリストの命に満たされ生かされている事”なのです…そうして、”キリストの命に生かされて行く時、律法を押しつける堅い器でなく、柔らかく相手を受け入れつつ、命を与える器となる事が出来る”のです。
キリスト御自身が、罪人や、荒くれ者達と共にいて食事も共にされたのです。ですから、”頭なるキリストに連なるキリストの体とされている者も、人を受け入れる”のです。
福音を携えて行くクリスチャンは、サタンが支配するこの世に遣わされて参ります…キリストは、その事を、「オオカミの中に羊が遣わされるようだ」と申しましたが、だからこそ、”キリストの御声を聴き祈り、主の命に生かされる”という”クリスチャン生活の根幹が崩れますと、私共は、あっという間にサタンに足下をすくわれてしまう”のです。
アメリカの初代大統領であるリンカーンは、奴隷解放を実現した南北戦争時に、毎朝”一人神の御前に出て祈り、神と交わる時間を大切に〜した”という事です。そして、その時間は誰一人部屋に入る事を許さなかったとも言われています。
”ユダヤ人は、自分達の信仰を守る為に神と交わり”ました。”一人になって静かに神と交わる事は、とても大切な事”です。しかし、”ユダヤ人の間違いは、信仰は伝えるものである事を忘れ、自分の聖さを守る為、人を遠ざけた所にあった”のです。
使徒言行録10章1〜2節に「カイサリアにコルネリウス(コルネリオ)という人がいた…百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあります。
”コルネリウスは異邦人”でした。しかし、素晴らしい信仰生活を送っていた人だった事が分かります。しかし、”それでもユダヤ人からは、救いから漏れている異邦人とレッテルを貼られていた”のです。”使徒ペトロさえ、その殻を打ち破って、彼に伝道しようとは思わなかった”のでした。
使徒言行録10章9節に「ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時頃である」とあります…”ペトロは何時も12時に祈っていた”のです。”聖霊はその時幻を、ペトロに示され”ました。
使徒言行録10章11〜16節「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅で吊るされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。
しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもない事です。清くない物、汚れた物は何一つ食べた事がありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういう事が三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」…これは、”十字架によって、神がこれから、異邦人を、聖い者としたという宣言だった”のでした。
”ペトロはまだこの時、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べた事がなかった”のでした。”イエス様に「何を食べても良い」と言われてもペトロは食べなかった”のでした。”小さい頃からの教育が心の底に染みこんでいたから”です…彼はまだ、”ユダヤ教の枠内で物を考える事から解放されていなかった”のです。
しかし、”神様から「神が清めたものを、清くないといってはならない」といわれて、初めてペトロは目が覚めて行く”のでした…”神はユダヤ人だけじゃなくて、異邦人をも救おうとされている事を悟って行く”のです。ペトロが、「今見た幻はいったい何だろうか?」と、一人で思案に暮れていますと、コルネリウスから差し向けられた人々がシモンの家を探し当て、「ペトロが、ここに泊まっておられますか?」と尋ねて来たのです。
その時、ペトロは、なおも幻について考え込んでいました…すると、“聖霊”がこう言ったのです。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者達をよこしたのだ。」と…。
そこでペトロは、「あなたがたが探しているのは、この私です。どうして、ここへ来られたのですか?」と言いました。すると、彼らは「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れる評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」と答えたのです。
”それを聴いたペトロは、彼らとコルネリウスの下へ出かけて行った”のでした。
当時、”ユダヤ人のペトロが、異邦人の家に出かけて行って伝道したという事は、実にとんでもない出来事”でした。”明治維新の時、坂本龍馬の仲裁で、犬猿の仲だった、薩摩と長州が手を組んだ以上の出来事だった”のです…このようにして、”堅い垣根が取り払われた”のでした。
”神の手だてがなかったら決して破られる事のない壁”でした…”祈りによる神とペトロとの一対一の交わりが、また、祈りによる神とコルネリウスとの一対一の交わりが堅い垣根を溶かした”のでした。
”ペトロはコルネリウスの家で、イエスが救い主である事を語り”ました。その時、”滅びるほかないと思われていた異邦人に聖霊が降った”のでした。
使徒言行録10:45−47「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「私達と同様に聖霊を受けたこの人達が、水で洗礼を受けるのを、一体、誰が妨げる事ができますか」と言った」のです…それゆえここは”異邦人のペンテコステ”と呼ばれているのです。
”人間が決めた枠や規則を神が破られ、神が救いを全世界に広げる第一歩を切り開いて下さった所”だからです。
”教会が誕生した ペンテコステの時、教会に聖霊が下り”ペトロは言いました。「神がこう仰せになる。終りの時には、私の霊を全ての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者達は幻を見、老人達は夢を見るであろう」と…。そして、とうとう、”全ての民に聖霊が注がれる時が到来した”のです。
その”聖霊は、今も、私共の心を救い、心を支え導き、礼拝という神様の喜びの中で生きる喜びを教えて下さる”のです。
”福音が異邦人に及ぶのには多くの障害があり”ました。しかし、”神が聖霊によって、その障害を溶かして下さった”のです…”神は、今も私共を、そして日本や世界中の者をも憐れんで下さっている”のです。
”聖霊によって救われた私共は、聖霊によって、信仰生活を送ります…何よりも、聖書の御言葉を主イエスの御声として聴く事が出来、生活と祈りを導いて頂ける”のです。”そして、この主イエスとの交わりの中で、頭なるキリストに連なるキリストの体とされている事が分かり。また、礼拝で、神の喜びの中に置かれている事がわかるのです。そして、賛美に生きる者と変えられる”のです。
私共は、この”異邦人にも注がれた聖霊によって、主イエスとの交わりの中、人生に於いて御霊の実を結んで行く事が出来る”のです。