「アナニアとサフィラ」
使徒言行録5章1〜11節
◆アナニアとサフィラ
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
5:2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
5:3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。その事を耳にした人々は皆、非常に恐れた。
5:6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
5:7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
5:8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。
5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
5:10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。
詩篇51篇6節
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「アナニヤとサフィラ」
使徒言行録5章1〜11節、詩篇51篇6節、2005.1/8
新年礼拝では、”主イエスの御声を、良き羊飼いの御声と信頼して聴く”という事を聴きました。「どんな雑音(思い煩い)の中でも、主イエスの御声を第一に慕い求めて聴く事」が、これから始まる1年が、また私共の生涯が、そして教会が、”祝福される土台”であるという事でした。あらゆる面から見て、今年は、土居教会にとって、次の時代へ信仰を継承する大切な時となります。
それが、”私達1人〜が、即ち教会が、主イエスの御声を聴くという座をしっかり築く、あるいは建て直すと言う事にかかっている”のです。
ロ-マの信徒への手紙の学びが終わってから、私共は”神”について学んでおります。今朝は、その”神の属性(御性質)”の中の”聖なる神”であり、”畏れるべき御方である”事について学んで参ります。勿論、この、”畏れる”というのは畏れ怖がる事でなく、”尊び、重んじる”という事です。
私共は、今、”キリストの十字架によって、神さまに、ありのまま赦され、ありのまま受け入れられ愛され”ています。しかし、私共を受け入れて下さる神は、”聖なる神”である事を人間側は忘れてはならないのです。”人が神と共に生きる”時、神は平安を与えてくださいますが、”人間側は、聖なる神を畏れるという緊張感を失ってはいけない”のです。
今朝、共に読みましだ使徒言行録には、生まれたての教会、(初代教会)の事が記されています。初代教会の信徒達は、持ち物を使徒達の所に持ち寄ってお互いに分け合って生活しておりました。最初の教会の中には貧富の差がありました。人々から尊敬されていたバルナバが、自分の持っていた畑を売ってお金を作り、教会に持ってきて、貧しい人達のために献げました。人々は心からバルナバに感謝しました。
迫害下にあった初代教会(愛の共同体)が、そのような姿に変化したのは、愛ゆえ自然な事でした。そして教会という共同体から貧富の差は消えて行ったのです。
時折、ブランドに身を包み、自分の為に大金を湯水のように使う人々をTVで見ます。その一方で、北朝鮮の実情を報道する番組を見ますと、食べるに事欠く貧しい人々がいる事を思います…”こうした貧富の差は、決して神の御心ではない”と思います。
共産主義というものがあります。ロシアがソ連時代、政治的権力で、平等な社会を実現する為に、自由が束縛された事を私達は知っています…”人間には、少しでも他人より良い暮らし、良い思いをしたいというエゴイズムがあるので、強烈な権力で人々の欲望を押さえつけなければならないから”です。
確かに共産主義は理想ではりますが、人間にエゴイズムがある限り、制度や法律だけでは実現できないと言っても言い過ぎではないと思います。初代教会にもアナニヤとサフィラという夫婦がおりまして、この夫婦が失敗した記録が残されているのです…二人はある時、自分の土地や財産を売り払い、その一部を教会に献金する為に持って来たのです。
人はお金が手に入るとお金が惜しくなると聞いた事があります。二人も沢山の金貨を手にいれた時、”惜しむ心が沸いてきた”のです。しかし、”バルナバのように人々に賞賛されたいという虚栄心も捨てる事が出来なかった”為、二人は、相談して収入額を偽り、自分の懐にお金を多く入れて、献金したのです。
”献げる献げないは自由”です…”彼等の問題は、心の内におられる聖霊に罪を示されたにも拘わらず、神の御目の前に神を欺いた罪”でした、この罪は重いのです。
”エゴイズムが、神に対する欺きの罪を生んでしまった”のでした…こうして、”初代教会の神を中心とした共産生活が崩壊して行った”のです。神を中心としていた共産生活が崩れたのですから、法律や制度による共産主義が成功する筈がないのです。
トインビーという歴史学者は、「共産主義は、間違いを犯したのでなく見落とした」と言いました。何を見落としたのかと言いますと、”人間のエゴイズムを見落とした”のでした…”人間のエゴイズム(自己中心)の罪は、それ程、人の心深くに根を降ろしている”のです。
アナニヤとサフィラの罪は、”神を欺こうとした所にあった”のです。それはイエスの弟子ユダと同じケースなのです。ユダは財布の中身をごまかしました。「サタンは偽りの父である」と、ヨハネによる福音書8章44節は言います。これに対して、”聖霊は真理の御方”なのです…”ここで神が厳しく裁かれたのは、惜しむ心をではなく、心の内におられ、罪を示された真理の御霊を欺く罪”なのです。
聖書に戻ります…アナニヤは、神を欺いた献金を教会に持って行き使徒達の足下に置いたのです…その時、”聖霊はアナニヤの罪を使徒ペトロに示された”のです。ペトロは言いました。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか…。どうして、こんな事をする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と…。
その時、アナニヤの顔は真っ青になり、そこに倒れて死んでしまったのでした。しばらくして、妻のサフィラが何も知らずにやってきました。「今頃きっと、私達の献金の事が教会の中で評判になっているかも」とウキウキしながら…。
サフィラは使徒ペトロに挨拶しました。けれどもペトロの雰囲気が違います。「サフィラ、あの土地は本当にこの値段で売れたのですか?」…おそらくサフィラの胸はドキンとし、「ペトロはどうしてこんな事を聞くのだろう?」と思い、口が渇いたに違いありません。しかし、「そうです。その値段です」とサフィラも嘘をついてしまったのでした。
ペトロは、サフィラを見て言いました。「サフィラ、どうしてあなた達は二人で示し合わせて、主の霊を試すのか?見なさい。あなたの夫を葬りに行った人達が、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう」と…。
牧師をしていると、「この人はこのままの信仰だと、きっとこうなる」と思う事があります。しかし、ストレートに言いますと関係がこじれますので、もどかしさを覚えながら背後で祈るのです。しかし、この時は、もう祈る間も無かったのです…おそらくペトロは無念さに、唇を噛みしめ、握り拳を震わせながら、この裁きの言葉を語ったと思うのです…そして、サフィラもそこに倒れて死んでしまったのでした。
9節に神に代わってのペトロの言葉がありました。「主の霊を試すとは、何としたことか」…これは「神を試みてはならない」という(マタイ四7)の戒めへの違反であるという審きの宣言でした。この”アナニヤとサフィラの死”は、医学的に言えば、心理的なショック死と考えられますが、”聖書は神の裁き”として捉えたのです。
ペトロは、7〜8節で、「あなた達は、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」と問いました。この意味は、”アナニヤとサフィラに、悔い改めの機会を与える為だった”のです。ペトロは足元に積み上げられた、二人の献金を指差して問うたと思います。しかしサフィラは、悔い改めの機会を与えようとした、ペトロの慈悲を拒み、欲と虚栄を選んで、”聖なる神を欺いた為、神の怒りをかってしまった”のでした。
このアナニヤとサッピッラの箇所は、教会であまり説教される事のない所です。”厳しい神の裁きが語られている所だから”です。始めて教会に来られた方が、最初に聴いた神の言が、此処ですと、おそらく、「神って恐ろしい厳しい方なのだなあ」というイメージを払拭するのが困難だと考えるからです。
しかし、そうした配慮があったとしても、それを超えて、”教会は、聖なる神を畏れるという事を語らなければならない”のです。そうしませんと、”クリスチャンから神への畏れが消え、安易に神を欺くクリスチャンになって神の裁きに遭うから”です。
”罪の自覚が無くなりますと、神の痛みの愛による受容を忘れてキリストから離れ、キリストの御声を聴かない者となり、神を侮り、神を欺き、キリストを、もう一度十字架に架ける者となってしまう”のです。
”神さまは愛のお方です。でも神は聖いお方なので、俗なる者を愛し受け入れる為に、御子イエスを十字架に架けられた”のです。それが”十字架の血潮で赦され受け入れられたという事”なのです。
ですから,”この恵みに預かった者は、預かり続ける為に、自分の罪が御子を十字架に架けたという罪の自覚と、神の痛みの愛への感謝を忘れない事が大切”なのです。そして、この新しい年も、この”神の痛みの愛を忘れる事なく、共に聖なる神さまの御前に生きて行きたい”と願います。