「共なる神への信頼に生きる」
ヘブライ人への手紙13章5〜6節
13:5 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
13:6 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「共なる神への信頼に生きる」
ヘブライ人への手紙13章5〜6節.2006.1/29
19世紀のロンドンに、ジョージ・ミュ−ラーという牧師がいました。彼は孤児の父と言われた人です。祈り一つで何千人という孤児を養った人だからです。
ゼロから出発した孤児院は、64年間でなんと一万人の孤児の世話をしたという事です。沢山の子供をかかえて、衣食住を与えていかなければならなかった彼の愛唱聖句は、「主は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」でした。私達は二人、三人の子供を養うだけでも懸命になっています。まして、一人が一万人を養うのは人間業で出来る事ではありません。彼はよく病気をした人でもあったそうです。
それは”病気をする迄祈ったから”でした…”神はぎりぎりの所まで、決して物を与えて下さらなかったから”です。しかし、遅すぎたり、多すぎたりする事はなかったと言われます。ミューラー牧師の生涯は「神は捨てない、人は悪意を持ち、自分を捨てるかもしれない。しかし、神は捨てない」という事の生き証人でした。
ヨハネによる福音書7章45〜52節にこんな出来事が記されています…ある時、ファリサイ派の宗教家達がこぞって、主イエスの批判をしていた所に、彼等の下役達が主イエスのお話を聞いて帰ってきました。そして「あの人のように聖さと、権威をもって話す人を見た事はない」と感想を報告したのです。
それを聞いたファリサイ派達は、嫉妬にかられて怒り出しました。「我々、宗教家の内、誰一人としてイエスをキリスト(救い主)として信じた者があったか?…あんな男の言い分を聞く者は呪われている」と。キリストの教えに感心して帰って来た者達は、そんな上司達の怒りの勢いに飲み込まれて何も言えなくなってしまったのです。
誰かと一緒に批判する事は容易です。しかし、逆風の中、1人で抵抗するのは想像を絶する困難な事なのです。
以前、主イエスに会っていたニコデモは、その時、「そんなに悪ロを言わず、イエスに会って聞いてみてはどうか?」と言いました。周囲の者達は、「おまえはガリラヤ出身か?(イエスの味方か?)」とニコデモを非難しました。けれどニコデモは、そんな非難に動かされなかったのです。”キリストへの信頼という動かされない岩が心の内にあったから”でした。
ニコデモのように、”自分の内に、確かな動かぬものがあれば、大きな逆流の中でも、「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」というキリストの御声を、動かない岩として、そこに留まる事が出来る”のです。
皆様にお祈り頂いた福島教会の山口幸子師は先週の日曜の夜、9時20分過ぎに天に召されました。皆様のお祈りの内に、葬儀に出席して帰って来る事が出来ました。ここで御報告を兼ねて幸子師の証しをさせて頂きます。
山口幸子師は、以前かかられた乳癌が、肝臓に再発し、昨年の9月に発見された時には、肝臓癌末期で余命3ヶ月の状態でした。1月22日の夜9時20分に、74才の人生の旅路を終え天国に召されました。不思議に家族が皆揃っておられた唯一の時に召されたという事でした。
幸子先生は、開拓者である山口先生のなくてはならない片腕であり、同労者でした。もともと身体の弱い幸子先生は、開拓のご苦労と貧しさの中、2人のお子様を難産と死産で亡くされ、棺を購入するお金もなく段ボールで火葬されたという事です。この一時が先生御夫妻の伝道者人生の全てを物語っておられます。
出来るだけ教会に負担をかけないように、何時も黙って全てを負いながら、唯、主イエスを愛し、主イエスに生涯を献げて来られました。そんな幸子先生の最後のお姿にも伝道者魂を見せて頂きました。
昨年の10月30日に、皆さんの祈りの内にお見舞いに行った時、「元旦に洗礼を授けたいので祈って欲しい」とお聞きしました。しかし、幸子先生は、数ヶ月前から、2階の自室で礼拝を守っておられる状態でした。山口先生から、余命は年内一杯とお聞きしていたので、正直、「そんな無茶な」と思いました。けれど、先生方と共に、その洗礼の為に祈ろうと思いました。
大晦日の日に予行練習をされた時には式文が読めなかったそうです。しかし、元旦の朝、”主イエスは祈りに答えて奇跡を起こして下さい”ました。幸子師はすっと立って洗礼を授けられたのです。葬儀の遺影は、その時の写真でした。そして洗礼式を終えた数日後、体調を崩され2週間半の、壮絶な闘病を主イエスの支えと、伝道者魂で乗り越えられ、天に勝利の凱旋をされたのです。
私の人生は、山口先生御夫妻を振り回したものでした…幼い頃、父を亡くし、実家にいた時、山口先生一家が来られるのが一番の喜びでした。母が再婚して仙台に移ってから10年間は、義父に虐待された日々でした。先生御夫妻は、毎日〜心を痛めて祈って下さいました。中学3年の時から2年間、教会に引き取って頂きました。その時は、私の出エジプトの時でした。
先週も申し上げましたが、このお正月、前の父から29年ぶりに電話があり「昼から、夜になるまで電話の前で待っていた。牧師になったと聞いたので聴いて欲しい。お前の父であった10年間殴ったり蹴ったりして申し訳なかった」と…。涙の和解の時が与えられました。そして涙の祈りを10年間積んで下さった幸子先生が、会話が出来なくなる直前にご報告出来たのです。
仙台教会の副牧師として遣わされた7年間、山口先生御夫妻は、足りない者を心砕いて祈り育てて下さいました。自律神経を患い先生方にご心配をかけ、またも振り回す結果となってしまいました。
昨年の10月30日にお見舞いに行った時、私は、「先生御夫妻を振り回して来た事をお詫びしました」。幸子師は「私達は、あなたに振り回されたなんて思っていないよ。身内から献身者が与えられた事に感謝しているんですよ。ずっと祈っているからね」と言って下さいました。そのお言葉と、最後の握手の手の温もりは、私にとって、人生の転機となりました。
娘の育子さんは、「お母さんはびっくり箱のような人だった」と言われていました。甥の自分から見ても、少し抜けている叔母でありました。笑い話にはこと欠きません。しかし、幸子先生は先駆者でもあられました。婦人教職者として按手礼を多くの壁を乗り越えて受けられました。
また歴史編さん委員として、”日本ホーリネス教団の歴史の上に働かれた神の御手”を書き残されました。昨今、教会の歴史観が重んじられるようになりましたが、女性伝道者として、そうした歴史観を持った先駆者でありました。
幸子先生の、”最後の死に至る戦いは、「私は決して、あなたを離れず、あなたを捨てない」と言われる主イエスを教えて下さるもの”でした…入院したら帰れない事を御存知だった幸子師は、限界まで自宅で病と戦われました。
余りの痛さに身を横たえる事が出来ず、ベッドの上でうずくまり、娘さんと見つめ合いながら朝を迎えられ、水も飲めなくなり、尿も出なくなった時、山口先生が「お母さん。入院するよ」と宣告され、その後の2週間は、死に至る病の中でも屈指の痛みとの壮絶な戦いでした。
尿が出なく、体中の毛穴から尿が吹き出し、呻かれるのを看病され、その姿に心を痛められた信徒さんが祈られていた時、神様は、「あの幸子先生の姿は、ゲツセマネの祈りで、汗を血のように流されたの我が子イエスの姿なのだよ。お前は、イエスのその事を聴いても、私の愛が分からなかっただろう。幸子先生の姿を通して私の愛を分かって欲しい」と語られたそうです。その姉妹は、「でも私に神の愛を教えて下さる為に、あなたに仕えて来られた幸子師をこんなに苦しめるんですか?」と叫ばれたそうです。
神様は、その祈りに答えて下さり最後の2日間、安らかにして下さりました。そして、家族だけがおられた時、静かに天に召して下さいました。
今、幸子師が痛みから解放され、天国で豊かな報いをうけておられる事に慰めを感じます。御遺族にとっても、私達夫婦にとっても、看病して下さった方々にとって、その壮絶な痛みとの戦いの姿は生傷です。”親しい者でも共に担ってあげる事ができない孤独な戦いを見たから”です。しかし、そんな中で、聖書の言葉が、死に至る戦いの中におられた幸子先生に対し、どんなに慰めの響きを立てたかに驚きを覚え、看病された方々、祈って下さった方々の上にも、これから御言葉から慰めが豊かにあるように祈っています。
”万軍の主が共にいる”という事は、この事なのです…私達は、よく過去の証をします。でも、証は、今日という日の恵みを語らなければ、単なる思い出話にすぎないのです。昨日のイエスは、今日のイエスでもあるからです。ですから”証しは、苦しみの中でも、主イエスが共にいて下さる事実から生まれる”のです。だからこそ私共は、明日の事を思い煩う中でも、「死の力に対してさえ言う。主は私の助け主、お前は私に何をなし得よう!」と立ち上がる事が出来るのです。