命の言葉の約束に生きる

使徒言行録7章30〜38節
7:30 四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。
7:31 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。
7:32 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。
7:33 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。
7:34 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』
7:35 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。
7:36 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。
7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』
7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。


ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

   
命の言葉の約束に生きる

            使徒言行録7章全体.7:30〜38.中心聖句7:38.2006.1/22

 今朝は、使徒言行録7章全体に記されている、最初の殉教者ステファノの告別説教から、”「神の御言葉の約束に生きる」という信仰者の歩み”について学んで参ります。

 ステファノは、旧約聖書の三大人物の「命の言葉を聴いて生きた姿」を語りました。中心聖句を7章38節「この人が…シナイ山で彼に語りかけた天使と私達の先祖との間に立って、命の言葉を受け私達に伝えてくれたのです」として、「命の言葉を聴いて生きる」と言う事を学んで参ります。

 使徒言行録6章8節では、このステファノを「恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業と徴を行っていた聖徒」と紹介しています。

彼は初代教会の役員でした…そのステファノの遺言ですが、これ程長い説教が記されているのは聖書では異例な事なのです。この時、”ステファノは、群衆から石を投げつけられて殉教する直前”でした。よくぞ、そんな危機の中で、”旧約聖書が記している、神の救済の歴史を、短く、的確にまとめて説教した”ものだと思います。おそらく”特別な聖霊の臨在と導きがあった”のでしょう。

 ステファノは、ここで、”アブラハム、ヨセフ、モーセの3人から神の救済の歴史”を語りました。
 最初の”アブラハムは、神の約束を信じたが故に、信仰の父と呼ばれるようになった人”でした…アブラハムは、”祝福の基となる事、全ての人の父となる約束を与えられた”のです。

 そして、”神のお約束を信じ抜き、イサクという子供が与えられ、私共の信仰者の父となった”のでした…”様々な出来事の中で苦しむ時、神がこの現実の中におられる事をじっと信頼し続けるのが信仰であると物語っている”のです。

 しかし、そんな”アブラハムでさえも失敗した事があった”のです…祈りに祈って、やっと与えられた「子供を与える」という神の約束を、待っても〜成就しないうちに老人になってしまい、焦りの中、神の言葉への信頼が揺らぎ、”女奴隷のハガルとの間に、イシマエルをもうけてしまった”のでした。

 このように、”神の約束に、自分の存在、人生をかけるという事は、決して優しい事ではない”のです。時折、「信仰は弱い者のする事だ」という人の意見を聞きますが、そのような人は、”マルコ8章35節に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為、また福音の為に命を失う者は、それを救うのである」とあるような…”信ずるものに、自分の全存在をかける厳しさも、また素晴らしさも知らない人”なのではないでしょうか?

 ”信仰に生きるという事は、神の助け無しに出来ない”のです…”それゆえ神は、聖霊と教会を与えて下さった”のです…”聖霊は、私共の思いや感情を超えて、御言葉を心に語りかけ、支え導いて下さいます。また、教会は祈りあって支え合い、信仰が揺らぐ時に、共に信仰に立つ共同体”なのです。
 
 ステファノが語った2人目にヨセフを、「神が共にいた人物」として紹介しています。ヨセフは父に特別に寵愛されたので兄弟に妬まれ、遠いエジプトの地に奴隷として売り飛ばされた人です。しかし、”異国で受けた多くの試練の中、自暴自棄にならずに神を見上げ続け、神はそんなヨセフと共にいて、異国エジプトの地で総理大臣に迄なった”のでした。

 ある時、中近東の一帯を大飢饉が襲い、兄弟が、ヨセフが総理大臣になっている事を知らずに食料を求めて旅して来たのです。ヨセフは正体を隠しつつ策略を練って、父をも呼び寄せ、「神があなた方を救う為に、私を先にエジプトに遣わされたのだ」と言ったのでした…”苦難の中で、神が自分と共におられる、全てを見ておられると信じ抜く時、人は恨みから解放され、愛の言葉を語る者となる事が出来る”のです。

 私事で恐縮ですが、このお正月、神が生きておられる事を感じざる得ない、恵みであり、畏れの体験を致しました。私は5才〜15才迄の10年間、2度目の父に虐待される日々を送っていた事はお証したと思います…今、お祈り頂いている山口幸子師は、母の姉で10年間、涙の祈りをして下さった方です。中3の冬に教会に引き取られた日、残った母は、命の危険を感じたそうです。

 その父から29年ぶりに電話があり、「私を覚えていますか?今日は昼から、電話の前に座り、夜になるのを待っていた。あなたが牧師になったと聞いたので、電話を放り投げないで聴いて欲しい。私が、あなたの父であった10年間、殴ったり怒鳴ったりして申し訳なかった。許して欲しい」という電話でした。そこは涙の和解の場となりました。その父は、今、九州にいるそうなので、家族で伝道に行きたいと願っていますのでお祈り下さい。

 また幸子師が会話が出来た最後の時に、この報告が出来たのです。神は幼い頃の涙の日々に共におられた事を教えられました。

 ステファノが最後に語った、モーセは、”エジプトの地で奴隷となっていた祖国イスラエル人を救出した人”です。モーセは赤ちゃんの時、ナイル川に流された所を、エジプトのファラオの娘に救われて、奇しくも王子になった人でした。

しかし40才になった時、自分の同胞であるイスラエルの民が虐待されているのを見た瞬間、義憤にかられてエジプト兵を殺してしまい。王の怒りを恐れてミディアンの地に逃れたのでした…”神を忘れて自分の権力と力で解決しようとした結果”です…そしてミディアンの地で羊飼いになり、40年が経ち80才になっていました。

 ”自分の権力も体力も尽きた時、神は燃え尽きる事のない柴をもって現れ、その炎の中からモーセに語りかけられ”ました…「履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である」と…。 この御言葉は、「今、あなたは神の御前にある事を覚えなさい。そして、自分で立ち、自分で行くという考えを脱ぎ捨てなさい…神である私が、あなたと共に行く」という意味だったのです。

 更に、”「イスラエルの民を救い出し、カナンに導く」という約束が与えられた”のです…こうして”モーセは、80才にして神に立てられ、ファラオの所に行ったのでした。そして、10の災いをファラオとエジプトに降して、エジプトからイスラエルの民を救い出した”のでした。

 モーセの人生において一番心を打たれる事は、”モーセが約束の地、乳と密の流れるカナンの地を見ながら、1人で山に入って死んだ事”です…此処までのモーセの苦労は筆舌を絶するものでした。なのに、約束の地カナンを目の前にしながら入る事は許されなかったのです。「どうしてモーセに花道を備えてあげなかったのですか?」と神に言いたいのは私ばかりではないと思います。

 ”しかし神様は、ここで信仰者に望まれる唯一つの事を示されている”のです…それは、「神が信仰者に望まれる事は、神の言に真実に聴き従う」という一点”なのです。

 ”モーセには、この世では花道はなかった”のです。しかし、時は下って主イエスの時代…主イエスが始めて、ご自分がメシアだと公言された後、標高2800mのヘルモン山に、側近のペトロとヤコブとヨハネを連れて登った時の事が、ルカによる福音書9章30〜31節に書いてあります。

 この時、神は主イエスの姿を真白く輝かせ、雲の中から「これは私の愛する子、これに聴け」と言われたのです…これは”キリストこそは、メシア(救い主)であるというお神の墨付き”でありました。とその時「…モーセとエリヤも、栄光の中に現れて、イエスが工ルサレムで遂げようとする最後の事について話していたのです。”モーセとエリヤは、律法と預言を代表する人物”でした。ですから、この事は、”救い主の到来を預言する旧約聖書も「主イエスこそ救い主」とお墨付きを与えた”とも言えるのです。

 ”3人の会話は、「最後の事」について”でした…それは”十字架の事に違いありません”…しかし、”原語のギリシャ語で見ると「エクソドス」という言葉が使われている”のです…それは、”「出エジプト」という意味の言葉”です…”主イエスは、今から架かる十字架を「出エジプト」と言った”のでした。

 ”十字架は、出エジプトの焼き直しであり、出エジプトを完成するもの(モーセが、神の民を、エジプト(罪の象徴)の支配から救って、神の民を、神のものとした…十字架は、それを完成するもの)と言われた”のです。

 ”キリストは、モーセの出エジプトが、天国で十字架の予表(モデル)として最大の賞賛を受けていると言い報われた”のでした…ですから、ステファノも「神の御言葉の約束に聴き従う事こそが、神が求める、天国で報いを受ける歩みである」と言ったのでした。

 ステファノが息を引き取ろうとする時、「彼が聖霊に満たされて天を見つめていると、主イエスが神の右に座しておられるのが見えた」のです…群衆から、石を投げつけられているステファノの姿にいたたまれず、”神の右の座から立ち上がり、両手を差し伸べて迎えて下さろうとしている主のお姿を見た”のでした。

 クリスチャンは律法でなく、恵みの世界に生きております。けれども一つだけ努めるべき事があるのです…それは、”どんな時でも、主イエスを見つめ続ける事”です。それが、”主の御声を聴く事”なのです…7章38節「…命の言葉を受け私達に伝えてくれたのです」…この一点に忠実な者に対して、神は地においても天においても豊かな報いを与えて下さる”のです。