「無くてはならない一時」
ヨハネによる福音書10章1〜16節
10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門から入る者が羊飼いである。
10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
10:4 自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言う事を聞かなかった。
10:9 私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
10:16 私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる
ルカによる福音書10章38〜42節
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「無くてはならない一時」
…新年礼拝…
ヨハネによる福音書10章1〜16節.2005年.1月1日
新年おめでとうございます。いよいよ2006年が始まりました。新しい年も、皆さんと共に神さまの祝福の中を歩んでいけますようにお祈り致します。”一年の計は元旦にあり”と申します。元旦を機に、何かを始められた経験のある方は、結構多いのではないでしょうか?…ルカによる福音書10章42節に「しかし、必要なことはただ一つだけである」という御言葉があります。”年の初めの、この礼拝で、私共の人生に、真の祝福をもたらす事を始める事が出来たら幸い”です。
キリストは「無くてはならないものは一つだけ」と言われました。元旦のこの日から、その”無くてはならない一時を聖霊の助けを祈り求めつつ始めたい”と思うのです。更に言えば、この朝が、”無くてはならない一時を一年で終わらせず、一生続く始めの日となる事を祈りつつ”お話致します。
今年の御言葉として与えられたのは、”ヨハネによる福音書10章1〜16節”です。11節に、イエス・キリストが御自身の事を「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる」と言われた事が記されています。そして、ここで言う”羊”というのは、”キリストを救い主として信じ受け入れたクリスチャンの事”なのです。
”事実、キリストは良き羊飼いとして、羊の為に十字架で命を投げ出して下さいました。それは、誰の為、何の為かと申しますと、私共の魂を永遠の滅びから救う為”だったのです。
それゆえ”キリスト”は、14〜15節で「…私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊の為に命を捨てる」と言われたのでした。
”父なる神と子なる神キリストと聖霊なる神は、三位一体の神”です…「その一体である神がお互いを知っているように、私はあなたを知っている。それ程、あなたを知り、心にかけ愛している。だから私は、あなたの為に命を捨てる」と言われるのです。
またキリストは、”御自身の真実さにかけて、、キリストを信じるキリストの羊に対し、祝福を約束され”ました…その”キリストの真実な約束が10章の9〜10節”にあります。「私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける…私が来たのは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受ける為である」と…。
”キリストは、御自身の羊に対して、何処までも、救いと牧草(命のパンと命の水)を与える源泉であり、豊かに命を与え続けて下さるお方”なのです。
3〜4節に「…羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」とあるように、”羊は良き羊飼いの御声を信頼して聴いてついて行く”のです…”この私共の名を呼んで下さるお方の御声を、本気で聴いてついて行く者は、生き方が変えられて参ります。顔つきや態度が自然と変わって来るのは勿論、家庭や社会さえも変わって行くのです。
「アリとキリギリスというお話があります。人生に必要なものを備えておきなさい」というお話です。人は皆、人生に必要な物を考えます。ある人は、健康、またある人は実力や地位や権力、ある人は経済力、ある人は平和と考えると思います。確かに、それらは必要なものです…しかし、聖書は、「それらは一番大切なものではない。本当に無くてはならない一時がある。その一時を見失うと、良き羊飼いから離れて迷子になり、神の祝福を失ってしまう」というのです。
その”一番大切なもの”と言うのが、”良き羊飼いの御声を聴くという事”なのです…ルカによる福音書の10章38〜42節に、”主イエスがマルタとマリヤの二人の姉妹の家を訪れた時の出来事”が記されております。
この時、マルタは、主イエスと弟子達をもてなす為に、せわしく働いていたのです。しかし、”妹のマリヤが主イエスのそばに座りこんで、主のお話に聴き入る姿”にいらついたので、主イエスに近寄って言いました。「主よ、私の妹のマリヤは、私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と…。
主イエスはお答えになりました。「マルタ、あなたは多くの事に思い悩み、心を乱している。しかし、必要な事はただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。
ここに、”私共の人生にとって、また教会にとっても、無くてはならない、一番大切な一時が述べられている”のです…それが、”マリヤのように、イエス・キリストの御声を聴く事を一番大切にする”事なのです。
主イエスは山上の説教の中でも同じ事を言われました…「神の国と神の義を第一に求めなさい」と…。それは、「どんな時でも、主イエスの御言葉を一番に慕い求め、主が語られた御言葉に生きなさい」という事なのです。
テープレコーダーに吹き込んだ音を聞いていますと、「あれ、こんなに雑音があったかな?」と思う事があります。”人間の耳は、聴きたい音にだけに集中出来るので、雑音が気にならなくなる”からです…”私共は、世の思い煩いの中で、いえ、思い煩いの中だからこそ、良き羊飼いに信頼し、その方の御声を聴く一事に集中する”のです…それが、”キリストの羊の生きる道”なのです。
”キリストは原語のギリシャ語では、クリストス”と言います。その言葉には”「救い主・恵み深い御方」と「おいしい」という2つの意味がある”のです。詩篇119篇103節に「あなたの仰せを味わえば、私の口に蜜よりも甘い事でしょう」とあります…”キリストの御言葉を、自分の全存在をかけて聴く(命をかけてついて行く)者の人生は、神の恵みの甘さを知る人生となる”と言うのです。
私事で恐縮ですがお証をさせて頂きます…私は2ヶ月前から、ある事がきっかけで聖書を1日10章読んでおります。今は、この聖書通読を一生続けて、死ぬ迄100回通読したいと願っています。勿論、時間を聖書に割く事が出来るのは牧師の特権です。しかし、1日4章(新約1章旧約3章)ずつ読みますと、1年で1回通読できるのです。新約2章、旧約2章でもよいと思います。実行されるとおわかりになると思いますが、映画を観ているように展開が早くなります。すると面白くなって来るので、1日1章をノルマに課していた時よりも楽しくなり持続する事に気づきました。
また聖書を読むのは意外に時間がかかりません…”1章5分前後”です。”何も考えず、心に響いた所を線を引きながら読む”のです。そして、後で、線を引いた部分を読み直しますと、見えない筈の主イエスですが、”今、自分に語りかけて下さる主イエスの御声が分かって来る”のです。
1日3〜4回に分けて聖書を読みますと、そう負担になりません。”仕事休憩中に、車の中で主の御声を聴き、嫌な事があった時にも主の御声を聴く、夜、主の御声を聴いて休む”…すると、”1日中、主イエスの御声を聴いている感覚になり”ます。「朱に交われば赤くなる」という言葉のように、何時も、”主イエスの御声と共に歩く人になる。そうしますと私共は、キリストの羊となり、良き羊飼いであるキリストに似て行く”のです。
1度目の通読を赤線、2度目の通読を青線として引いて行きますと、同じ箇所でも、前回と違う箇所が心に響いてきているのに気づきます。”今、主イエスが自分に語って下さっている事が違うから”です…聖書を読んでいて,その様に,「主イエスが今、聖書を通して、今、自分に語って下さる」事が分かって参りますと、何よりも”安心”します。(幼い頃、迷子になった時、聞こえてきた母の声に安心した事を思い出して下さい)。そして、”喜びや慰めが与えられるのです。
悔い改めへ導かれる時もありますが、その時は、素直に悔い改めが出来る時”なのです。そして”赦しの宣言”もして下さるのです…”その時、心に愛が生まれ、信仰や献げる喜びも与えられる”のです。すると”顔が輝いて”参ります。こうした変化は、3日〜2週間もあれば現れて参ります。
反対に”数日間聖書から離れているとイライラしている自分に気づくようになる”のです。”聖書を読まないと断食しているのと同じ感覚になる”のです。
主イエスはヨハネによる福音書10章で、その様に、”キリストの御声を真剣に求めるという一事に忠実な群れへの祝福を約束”されています…10章1節「…その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と…。”良き羊飼いの御声を聴く羊は、キリストに導かれ、一つの群れになる。キリストの平和に支配された群れ(教会という共同体)となる”と言うのです。
そして、”その群は豊かな牧草のような霊的な命に満たされ、命が充ち満ち、キリストが、その群を信頼して新しい羊を託して下さる群となる”のです。私共は一年の初めに、”「キリストの御声を聴く」という、無くてはならない一時を聴き”ました。
これは、”私共の人生と教会の祝福の礎”なのです。10章14〜16節「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている…私は羊の為に命を捨てる…その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」…この日が、”私共が祝福される為、無くてはならない一事である、主の御声を聴く座を立て直す日となりますよう”祈ります。