イエスの裁判

ヨハネ福音書18章28節〜19章16節
◆ピラトから尋問される
18:28 人々は、イエスをカイアファの所から総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をする為である。そこで、ピラトが彼らの所へ出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。18:30 彼らは答えて、「この男が悪い事をしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。18:31 ピラトが、「あなた達が引き取って、自分達の律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人達は、「私達には、人を死刑にする権限がありません」と言った。18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現する為であった。18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか。」
18:35 ピラトは言い返した。「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」18:36 イエスはお答えになった。「私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦った事だろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っている事です。私は真理について証しをする為に生まれ、その為にこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
◆死刑の判決を受ける
18:38 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「私はあの男に何の罪も見いだせない。18:39 所で、過越祭には誰か一人をあなた達に釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」18:40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、19:3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。19:4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちの所へ引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなた達が引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「私達には律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前は何処から来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。19:10 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にある事を知らないのか。」19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 19:12 そこでピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」19:13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。19:14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人達に、「見よ、あなた達の王だ」と言うと、19:15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなた達の王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私達には、皇帝のほかに王はありません」と答えた。 19:16 そこで、ピラトは、十字架につける為に、イエスを彼らに引き渡した。

エレミヤ10章10節
「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
               イエスの裁判
       ヨハネ福音書18章28節〜19章16節.
       エレミヤ10章10節.
                         2006.11/26
 ゲツセマネの祈りの後、イエスは弟子達とキデロンの谷に行かれました。そこに、イスカリオテのユダが、ローマ兵達と祭司長・律法学者の下役達を引き連れてやって来たのでした。「たいまつやあかり」を持って来たともあります。それは、彼らが闇の内に活動した事を示しています。

 イエスを裏切り、闇に消えたユダが、闇を引き連れてイエスを捕えに来たのでした。主は自ら進み出て、彼等に捕えられたのでした。

 そしてイエスは、兵卒達との問答の中で、出エジプト記で神がモーセにご自身を顕された時のように、”二度「私がそれである」(5節、8節)と御自身の本質を告げられた”のです。

 それを聴いた兵卒達は、後ずさりして倒れたと聖書は記します…それは、”神の臨在に触れた事を意味”しているのです。

 またイエスは、剣を抜いてイエスの逮捕に抵抗したペトロをたしなめ「父が私に下さった杯は飲むべきではないか」と、”十字架を、父なる神から与えられた飲むべき杯と捉えておられる事”を語られたのでした。

●ピラトによるイエスの裁判
 ”主イエスの御生涯の一番大切な所に居合わせながら、主の本質に出会い損なった人々”がいます。その”代表者がポンテオピラト”でした。今、私共は、
それが勿体ない極みだと分かりますが、この時、ポンテオピラトは分からなかったのでした。

 しかし私共も、主が、今、自分にとってどんな救い主として、自分の前におられるかが分からない時があるのです。

 この日は過越の準備の日でした。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカによる福音書)と違い、このヨハネ福音書では、イエスが過越しの前の晩に逮捕されているのです。これは、”過越しの小羊が屠られる時に、「イエスが世の罪を取り除く神の小羊として十字架につけられた事を示したかった」から”と思われます。

 裁判では四つの場面(告訴、第一回判決、第二回判決、最後の判決)が展開し、そこにピラトが登場します…”ユダヤ人らは、既にイエスの死刑を決めていましたが、法的権利がない為、ピラトの判決が必要だったから”です。

 役人が、平穏無事に大過なく任期を全うする事を願うのは、昔も今も変わらない事だと思います。ピラトの一番の願いもそうでした。何事もなく治世を行い、ローマ皇帝に認められ、早く、辺境の地から華やかなローマに戻る事がピラトの願いだったのです。

 少なくともピラトはイエスに対して敵意を持っていませんでした。第一回目の裁判に於いても、”神の国(イエスが王として支配される国)がこの世のものでない事、彼が真理について証しする為に来た王である事を確認した”のでした。
  尋問の中で、イエスはご自身を「真理」と言われました。真理に基づいてでなく、民の評判を気にして裁判をしていたピラトは、自らの闇をつかれ、「真理とは何か」と、イエスを皮肉って第一回目の審議を終えたのでした。

 第二回判決では、外のユダヤ人に、”イエスの無罪を告げ、過越の祭りの恩赦をイエスにしたらどうか?と語り始めました”。

 しかしユダヤ人達は納得せず、強盗バラバの釈放を求めたので、ピラトは、鞭打ちと暴力の刑を執行したのです。傷めつけられた姿を見せればユダヤ人が納得すると思ったからでした。

 茨の冠をかぶせ、王の衣を着せ、血だらけになったイエスを、ユダヤ人の前に引き出しました(4〜5節)。しかし祭司長や下役達は「十字架につけよ」と叫び続けたのでした。 ”ピラトはここで、イエスの無罪を三度も主張している”のです。

 19章13節を見ると、「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、即ち「敷石」という場所で裁判の席に着かせた」とあります。 これは「ピラトはイエスを裁判官の席に着かせた」とも取れる言葉が使われているのです。

もし、そういう意図があったなら、死刑を求める祭司長達と群衆に対し、裁判の場にイエスを「ユダヤ人の王」また「裁判官」として登場させた事になるのです。ユダヤ人への強烈な皮肉でした。

 しかし群衆は、更に興奮して、「殺せ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。一週間前「ホザナ、ホザナ(主よ、我を救いたまえ)」と叫んで大歓迎した群衆が、たった一週間の内に、手のひらを返して「殺せ、十字架につけろ」と叫び続けたのでした。群衆とは、その様に罪深い者なのです。

 ”主は罪に対する救い主として来られた”のです…しかし、人々は、”癒し主、ローマの圧政からの政治的解放者として期待していたので、その期待が裏切られた反動で主イエスを憎んだ”のでした。

 イエスに恩義を感じていながら、人々に流されて沈黙していた人々も同罪です。ピラトは、「あなた達の王を私が十字架につけるのか?」と皮肉を込めて問いました。

 それに対し祭司長達は、「カイザル以外に王はなし」と叫んだ(15節)のです。”ユダヤ人が、イエスを死刑に処する為に、この世の権力者を「自分達の王」とした瞬間”です。

 図らずも、カイザルヘの忠誠を誓わせる結果となったのをを見たピラトの心は定まりました。こうして”ピラトはイエスに,十字架という最も残酷な死刑判決を下した”のでした。

 「イエスか?カイザルか?」=「神の国か?この世か?」との問いは、後の迫害下を生きるキリスト者にとって大切な試金石となりました。”私共も、今日、この問いに直面させられつつ生きているのです”。

 私共は毎週、礼拝で「ポンテオピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ」と使徒信条を唱えます。”ポンテオとは総督という意味”です。”

 ローマの命令を受けて、ユダヤの国を治めるのが総督”でした。しかし、ピラトがキリストを殺した張本人のように言われる事は可愛そうにも思います。確かに、ピラトは、三回も、「この人に何の罪も見い出せない」と言いました。

 しかし、ヨセフスという歴史家は、ピラトは残忍な人だったと言い切ります。こんなエピソードがあるからです。ピラトは自分が総督となった時、ローマ軍の旗を掲げて行進しました。ユダヤ人はそれに反対し、抗議のデモと五日間の座り込みをしました。ピラトは彼等の首をはねる命令を出しました。

 その時ユダヤ人達は、皆、首を差し出したのです。脅しが通じなかったのです。その時以来、ピラトは、ユダヤ人を怒らせると面倒だと思うようになり、”ユダヤ人の間違いに気づいていながら、ユダヤ人の心を掌握する為に審きを曲げた”のでした…”ここにピラトの罪がある”のです。

 総督という「人を審く」地位にいたピラトには、”イエスに無罪の判決を下す責任があった”のでした。

 エレミヤ10章10節に「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え、その憤りに諸国の民は耐ええない」とあります…この”不当な判決を下したピラトは、永遠を支配する王を、真理の神を有罪にした人物として、礼拝で永遠に名を唱えられる事”となったのです。

 私共も神から、救いを頂き、神の民という立場を頂き、永遠の命を頂いたという特別な祝福を頂いています。主イエスに出会ったからです。ですから救い主に出会わなかった者のようでなく、救い主を主として生きる者として下さいと、共に祈り求めたいと思います。