「実を結ぶ生涯」

ヨハネによる福音書15章1〜10節、15〜16節.
      中心聖句15章4−5節
◆イエスはまことのぶどうの木
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。
15:6 私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい。
15:10 私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私しの愛に留まっていることになる。

15:15 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。
15:16 あなた方が私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」


         実を結ぶ生涯

   ヨハネによる福音書15章1〜10節、15〜17節.
              中心聖句15章4−5節.2006.11/19

  今朝読みました所は、最後の晩餐と、ゲツセマネの祈りの間で、主イエスが語られた言葉です。5節に、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである」とあります。

 この有名な御言葉は、”イスカリオテのユダへの回心を求めた切なる言葉”だったのです。

 今朝は、この御言葉を私共に向けて語られている、イエスの言として聴いて参ります。”ヨハネによる福音書の特徴の一つに、主の教えが螺旋状に記されています”。一度語られた教えが始めに戻って、2度目にもう少し掘り下げて語られるのです。

 新聞も、始めに全体を短くまとめてから、詳しく書き記します。私共の会話も意識してそのようにしたら、相手に良く伝わる様になると思います。

 15章1〜4節で、「ぶどうの枝である、あなた方は、ぶどうの木であるイエスにつながっていなさい」と語り、5〜8節では、その「イエスにつながるとはどういう事なのか?」を語っているのです。

 では「キリストにつながる」とはどういう事なのでしょうか?…「つながる」という日本語から、糸で細々とつながっている状態をイメージしてしまうのは私だけでしょうか?この「つながる」と言う言葉は、原語のギリシャ語では、「いる」「留まる」という意味の言葉が使われているのです。

 池の中にコップを投げ入れた様子を想像して下さい。コップが水の中に沈んで行き、同時にコップの中にも水が入っていきます。その様に、”私共がキリストの中に留まる時、キリストも私共の中に入って来て住んで下さる”のです。
 ”キリストの中につながる(留まる)”という事を具体的に言うと、”二つの事”が言えます。”一つは教会に留まる”事です。”教会はキリストの躰”ですから

、”教会につながる事無しに、キリストとの命のつながりはない”からです。

 今は亡き著名な説教者が、説教の中で、「私共の中に、私は教会から離れているけれど、キリスト信者として信仰も品格も崩していないという者がある。けれどもそれは、火の消えたストーブの様であって間もなく冷たくなる。だから冷え切らない内に教会に戻って来る様に祈っている」と言われました。

 キリストの躰である教会から離れた人の内にある、キリストの命の火は必ず消えるからです。

 ”二つ目は、御言葉に留まる”事です。7〜8節「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば…あなた方が豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」

 教会に留まっていても、信仰の火が消えているように感じる事があります。体調が原因の場合もありますが、多くは、”キリストとの命のつながりが切れかかっている事に原因がある”のです。

 ここで、”キリストは、信仰の火が再び灯る道を教えて下さっている”のです…それは、”キリストの言葉である、御言葉に留まる事です。その人の中にキリストが住んで下さる”からです。

 先週、急な事でしたが、新居浜教会の信徒の方の葬儀の為、家内の母であり、新居浜教会の前任者の松本とも師が来られ5日間滞在下さいました。お茶を持って行きますと、何時も聖書を読んでおられました。毎日、土居教会の皆さんの名前を挙げて祈って下さっているそうです。御言葉に留まる信仰者の姿を教えて頂きました。
 
 15章2節を見ると、キリストは、「私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」と言われているのです。厳しい言葉です。ここにある「取り除く」という言葉は、原語のギリシャ語では、「持ち上げる」「剪定する」という言葉が使われています。

 「持ち上げる」…子供の頃、毎日虐待を受けていた私にとって、夏休みに、実家の山形に帰る事は何よりの楽しみでした。実家が近づくと、ぶどう畑が視界に広がりウキウキしたのを覚えています。一つの山全体が棚に覆われていました。
 ぶどうの枝は、そのままにしておくと垂れ下がり、地面に沿って伸び始めます。地面を這っている内は、ぶどうの枝は実を結ばないばかりか、雨が降ると、うどんこ病にかかってしまう為、農夫はせっせとツルを持ち上げて棚に絡ませるです。

 「剪定する」…ぶどうは放っておくと、ツルをどんどん伸ばし、太陽の光を遮り、また、養分を吸い尽くしてしまう為、農夫は実を結べるように剪定します。”神が、愛する者達に試練を許されるのは、神を求めさせ、信仰を練り聖め、神の恵みという命を受けるように整えて下さる為”なのです。

 最後に、”実を結ぶ”という事を学んで参ります。”実を結ぶという事は、成功する事とは違い”ます。”自分の力で何が出来たかという成功・不成功に一喜一憂する事から解放されて、神の栄光を現す事”なのです。

 イエスは、「あなた方はぶどうの枝である…あなた方は、自分の力では何も出来ない」と言われました。 ”ぶどうの枝は、太くなく曲がりくねっていて弱いので加工する事が出来ません。幹であるイエスから、命を頂いて実を結ぶしかない”のです。

 では、”キリストにつながっていれば、どんな実を結ぶ事が出来る”のでしょうか?…人間には随分力があると思います。人類は月にも行きました。都会には高層ビルがそびえ立っています。

 しかし、聖書の始めの創世記に「バベルの塔」の物語があります。文明を手に入れた人類は、早速傲慢になり、”神の座に近づこうと高い〜バベルの塔を築いた”のでした。しかし、その思いを見抜いた神は、バベルの塔を崩され、人々の言葉をバラバラにして全世界に散らされたのでした。

 確かに、文明は人々の生活を快適にして参りました。しかし、一方、悪魔に用いられ、戦争、原爆、公害をもたらしたのです。

 キリストが「私に留まっていなければ何も出来ない」と言われた、”キリストにつながって結ぶ実とは、人の努力で得られる実ではなく、神から与えられる愛”なのです。文明が道を踏み外すのは愛が無いからです。

 その”愛”は、人間的な自己中心的な愛の事でなく、”痛みつつも、人を受け入れ、人に与える無私の愛”の事なのです。その愛は、9節に「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛してきた。私の愛に留まりなさい」とあるような、”天の父なる神と子なる神キリストとの間の愛”なのです。

 そして、この”御言葉に留まる事こそ、このキリストの愛を頂く道”なのです。7節「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方の内に何時もあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば叶えられる」…10節「私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も、私の掟を守るなら、私の愛に留まっている事になる」

 この”キリストから愛を受ける為に、守るべき掟が、マタイ22章37〜40節にまとめられております。「…『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。

 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」”です。”私共が、キリストの言に留まる時、神の愛の実を結ぶ事が出来る”のです。

 それは、”痛みつつ、受け入れ赦す、無私の愛という、今迄の人生であり得なかった、キリストの愛”なのです。その時、人は”神の栄光を現すという、神に与えられた人生の使命を果たす事が出来る”のです。