「上に立つ者」
マタイによる福音書20章17〜28節
20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
◆ヤコブとヨハネの母の願い
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


           上に立つ者

    マタイによる福音書20章17〜28節.2006年10/8
 安倍新内閣が発足し、組閣された内閣は論功行賞内閣と揶揄されていました。報道を見ていて、政治家が如何に大臣の椅子が欲しいのかが伝わって参りました。先日、ある方から、会社における派閥争いや、派閥による人事というものが、如何にきついのかをお聞きしました。

 権力欲には、人間のエゴが露骨に現れます。NHKの大河ドラマで『功名が辻』を放映しています。今、ちょうど豊臣秀吉の晩年から死に至る迄の所です。かつて、人を殺す事が殆ど無かった秀吉が、天下の権力を手中にした時から、権力の座を守る為、どんどん人を殺すようになって行きました。権力の座に有頂天になり自分を見失っていく人の姿を見ます。また秀吉の犠牲になって憂き目にあう人の悲哀をも思わされました。

 聖書は、”人の上に立つ事は、人に仕える事”と言います…ですから、”その志は尊いもの”なのです。けれども権力の座は、エゴの温床ですので、殆どの場合、”権力の座は、人を支配する座となってしまう”のです。そこで今朝は,”どうすれば、人に仕える真の指導者になれるのか?”を学んで参ります。

 マタイ20章17節以下は、十字架が間近に迫る中で,イエス様が、”3度目の十字架の予告”をされた所です。”イエス様が、いよいよ十字架を、ご自分の使命として受け入れられ、「今から、十字架に架かりに行く」と弟子達に伝えて立ち上がった所”です。しかし、そうしたイエス様の暗澹たる思いを、弟子達は汲み取る事が出来なかったのでした。

 弟子のヤコブとヨハネの母親が、二人の息子の思いを代弁して、「あなたが十字架にお架かりになるならば、その後に訪れる神の国では、息子達を右大臣、左大臣にして下さい」と願い出たのです。そして、その言葉を聞いていた”他の10人の弟子達が腹を立てた”のでした…”他の弟子達も偉くなりたかったから”です。

 「親の心子知らず」です。”イエス様が、今から十字架に架かり地の底に降ろうしていたのに、弟子達は野心を燃やしていた”のでした。

 ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖畔でイエス様の招きを受けた時、直ぐに漁師を捨て弟子となった潔い信仰者でした。そんな人物の中に、「弟子達の中で誰が一番偉いか?」という思いが芽生えていたのです。

 ”権力欲”は、誰もがもっている欲でが、特に男性にとっては、これは、分かっていてもコントロール出来ない程、強く執拗なものなのです。人は権力争いの中、派閥争いに勝たねばと思うと、”権力の座を損得で見る”ようになり、”人の上に立つ事は、人に仕えるという事を見失い、支配者となってしまう”のです。

 しかし、”教会にはイエス様がおられ”ます。この”主に目を転じる時、世とは違う新しい景色が見え始め”るのです。28節に、「人の子(王の王である救い主)は、人に仕えられる為ではなく、人に仕える為に世に来て下さった”と書いてあります。

 ”最後の晩餐の時にも、イエス様は、王である事を捨てて、僕となって弟子達の汚い足を洗われた”のでした。そうして”真の愛で仕えて上と下とをひっくり返した、新しい世界を見せて下さった”のです。そのイエス様は、今、此処におられるのです…”このお方を心にお迎えする時、私共の心と教会は、キリストが愛で支配して下さる神の国となる”のです。

 日本国際飢餓対策機構の飢餓対策ニュースに次のような証しがありました。インドのバングラデシュでアウトカーストと呼ばれる人々の間で十年間汗を流してきた姉妹の報告です。

 始めに、「偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」という聖書の言葉があり、続いて次の証がありました。

 「アウトカーストとは、カースト制度の外に置かれた最下層の人を指します。見ただけ、触っただけでも汚れる者と差別されている人々です。インドの1割の1億人がそれにあたります。この人々は、自分に自信が無いので、常に人に依存し、逆に人に利用され酷い目に遭っているのです。この悪循環から脱出する為には、差別構造を改革する人が必要だと痛感しています。

 けれども難しさも見えて来ました。何故なら、歴史的・文化的成り立ちから、「長」と名がつく人々は皆、”自分の利益の為に、その地位がある”と考えているからです。この様な状況を見ながら判ったのは、”自分の益の為に動く人は「支配者」で、全体の益を考えて動く人が「真の指導者」という事”でした。

 そして、”真の指導者は、自然に出現しない事も判りました…人は、キリストによって新しく造られなければ、真の指導者になれない”という事です」と言う文でした。

 その「キリストによって新しく造られる」事こそが、「キリストが飲んだ杯を飲む事」なのです。では、この「杯」は一体何の事でしょうか?…”杯”で思い出すのは、”ゲツセマネの祈り”です。

 イエス様は、十字架に架かられる前夜、「父なる神よ。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、あなたの御心なら飲みます」と、汗を血のように滴らせて祈り、”十字架という杯”を飲まれたのでした…そのイエス様は、「やがて、あなた方も、私の杯を飲む事になる」と言われたのです。

 実際、弟子のヤコブは、エルサレム教会の指導者になりますが,”最初の殉教者になった”のです。ヨハネは弟子の内、唯一人生涯を全うしましたが、”パトモス島に流された”のでした。

 教会は、安らぎと罪の赦しを求めて来る所です。そんな私共に対して主は、「キリストの杯を飲む事が出来るか?」と言われるのです…正直、それよりも、「主の御許で休みたい。癒されたい」と思われるかも知れません。でも、それで良いのです…”先ず愛され赦され癒される所で、人の心に愛が生まれ、神と人に仕えたいという志が生まれるから”です。

 この ”偉い”には「大きい」と言う意味もあるのです…「人は棺の蓋を閉めた時、その人の存在の大きさが解る」と聞いた事があります。ですから、偉くなると言う事は、隣人にとって大きな存在になるという事でもあり、全ての者に対して、主が語られた事が分かります。

 イエス様は、十字架を、「多くの人の身代金」”と言われました…”身代金”は,命を救い出す為に払うお金です。”聖霊が私共の心に、「十字架は、あなたの為だった。あなたを永遠の滅びから救い出す為の身代金(身代りの命)だった。あなたを愛する神の愛なのだ」と教えて下さる時、私共は、十字架に架かって下さった、主の大きさが分かる”のです。

 ”イエス様は「この神の愛の大きさを知って、あなたも、隣人の為、大きな存在となりなさい」と言われるのです。

 次の御言葉を体験する事によって、私共はそのように変えられるのです…”ガラテヤ2:19−20「…私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」。

 キリストと共に自我に死ぬ事が、キリストの杯を飲む事なのです…そして、キリストの杯を飲んだ者は、キリストと共に復活して、心の中のキリストと共に生きるのです。

 そこで、私共の欲が聖められる”のです…”権力欲も聖められる”のです。”そうなる時、教会生活が変わります。人を赦して受け入れる者と変えられ、人に仕える(教会の奉仕)者と変えられるのです。また献げもの、家庭、会社や学校、社会に対しても、この生き方は輝いて行くのです。世界を変えてきた多くの偉人も、この信仰に生きた人々だった”のでした。

 ” 私共は、「私共は、私に大きく仕えて下さった、十字架の神の愛を知る所で、愛が与えられ、人に仕える大きな者となれるのです…上と下がひっくり返えった新しい世界が私共の人生でも始まるのです。