「愛の手本」

ヨハネによる福音章13章12〜20節

13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
13:18 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。
13:19 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
13:20 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


           愛の手本

      ヨハネによる福音章13章12〜20節.06.10/29

 先週に続いて、最後の夜に、イエスが弟子達の足を洗われた所から、神の言に聴いて参ります。

 旧約聖書のゼカリヤ書に、預言者ゼカリヤの預言があります。ゼカリヤ書14章7節「ただ一つの日が来る。その日は、主にのみ知られている。その時は昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある」。

 この「夕べ」というのは、”黄昏時”の事です。日が沈んだ後で、まだ光が残っている時を指しています…”ユダが救い主を裏切るこの日は、正に救い主と言う光が引きずり下ろされて闇が覆う日”でありました。

 しかし、その日,預言通りに、闇に勝つ光が残ったのでした。ゼカリヤ書14章の3〜4節に、その”夕べの光がどのように現れるのか?”が記されています

 「戦いの日が来て、戦わねばならぬ時…その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」…”救い主が、オリーブ山に立たれるという預言”です。

 オリーブ山は、工ルサレムの向かいにある山です。”救い主イエスは、十字架に架かられる前夜、オリーブ山に立たれた”のでした…”オリーブ山のゲツセマネの園で、汗を血のように滴らせながら祈られた主は、恐れに勝利されて十字架に向かって立ち上がられた”のでした。

”その瞬間、私共の罪を洗う十字架の成就が決まった”と言えるのです。

 イエスは、”十字架で私共の罪を洗う為に立ち上がられた”のでした…その前にイエスは、”十字架をどう捉えてどう生きるべきか遺言を残され”ました。
 遺言は洋の東西を問わず心に刻まれるものです。

 主イエスの遺言も、弟子達の心深くに刻まれました。キリストの弟子は皆、心に刻むべきです。それは、「主イエスが弟子達の足を洗ったからには、弟子達も互いに足を洗うべきである」というものでした。

 かつて、主イエスは宴会で上座に座るよりも下座に着くように語られました…しかし、ここの「足を洗い合いなさい」というお言葉は、そのような単なる教訓ではないのです。

この”イエスは、この遺言を、「もし、私があなたの足を洗わないなら、あなたは、私と関わりがなくなる」というお言葉と合わせて語られたから”です。

先週もお話しましたが、この”主の洗足は、心の汚れを洗い聖める十字架を指し示していた”のです。そして、”イエスは、「あなた方も、その様に、お互いに足を洗い合いなさい」と言われたのです。これは、”イエスに心を洗って頂いた者に生まれる新しい生き方”だからです。

 またイエスは、13〜14節で、「あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ…主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました…”イエスとクリスチャンの間には、先生と弟子の関係がある”のです。

 習字を初めて学ぶ時、先生が生徒の手をとって字を書きます。生徒は肩の力を抜いて先生の手に委ねて、筆の動かし方を覚えます…その様に、先生の姿に見習うのが弟子です。

ヨハネ8章31節に、「私の言葉に留まるならば、あなた達は本当に私の弟子である」とあります。”主の御言葉に聴き御言葉に留まる事こそが、イエスの弟子の唯一の資格”なのです。

 では、”主の弟子は、主の御言葉に留まる事によって、何を学ぶのでしょうか?…愛しあい罪を洗い合う事を学ぶ”のです。

 宗教改革者ルターは、「今、とても大事な事は家庭における信仰教育を回復する事である」と言いました。ルターは、信仰の教育は何よりも家庭において始まると真剣に考えました。それゆえ父親達に「家庭においては、あなたが牧師なのだ」と言ったのです。

 旧約聖書も、父親の一番大切な役目として、「神を畏れる事を教える事」としています。日本の教会学校の衰退の原因として、ゲームの普及などがあげられていますが、私は、家庭における信仰教育の衰退に大きな原因があるとも思っています。

 新約聖書のエフェソ人への手紙6章には、こんな事が書いています。「父親達、子供を怒らせてはなりません。主が躾、諭されるように、育てなさい」…「父親は、イエスを先生として、弟子となって子供の躾を学びなさい」というのです。

 それは溺愛する事ではありません。”子供の魂を見つめて、愛して愛し抜く、痛んで痛み抜く”…「愛と涙で、罪を洗う=子供が神を畏れ、自分の罪の恐ろしさを知り、十字架の下に悔い改めるように、祈りつつ時を待ち、愛をもって促す」のです。それが、”愛で罪を洗い合うという事”なのです。

 このように親として子供との関わりの中にも、”イエスを先生として、愛で罪を洗い合っているかが問われる”のです。自分自身、耳の痛い事です。

 主の弟子になろうとする時、心に問われるのは、「自分は主の弟子として生きる力があるだろうか?」という事です。「自分は神の子として未熟なのではないか?」と悩むのです…しかし、”イエスは、私共を諦めておられない”のです。

 それは、”イエスの弟子である根拠が、イエスの十字架による聖めにあるから”です。

 イエスは、ヨハネ13章10節で「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と言われました。それは、”「私が心を洗えない者がいる。私の洗足は無駄だった」という事ではない”のです。

 ”イエスは、選び救った者の全てを御存知”だからです。ですから、「皆が清いわけではない」と言うのは、十字架が無力だと言うのではなく、「私の罪の洗い(十字架)を拒む者がいる」という事なのです…”イエスは、ユダが裏切り者となる事を御存知で、それでも十字架の救いの力ゆえに選び、足を洗われたのでした。

 それゆえ、この「…皆が清いわけではない」というお言葉は、「ユダよ。立ち返ってきて欲しい」と言う切なる願いの言葉だった事が分かります。
 イエスが、私の弱さを全て知っておられると聞きますと安心します…自分の内にも、主を裏切る弱さがある事を知っているからです。

 ”イエスは、そんな私共の弱さの為に先行して、十字架にお架かり下さったのでした。ですから悔い改めるなら、罪が洗われ赦されるのです。それだけでなく、教会というキリストの躰とまでして下さる”のです。

 主イエスは、私共にも、「何故、私の十字架で、あなたの心を洗っている事を受け入れないのか?」「何故、あなたの心の中の闇の中に、十字架による救いの光が輝き始めている事を受け入れないのか?」
「ユダが私を裏切った夕暮れにさえ光があったのだ。あなたも私を信じるなら、あなたを変える神の力が、あなたと共にいる事を知る事が出来るのだ」「悔い改め、罪が洗われ、愛の光を心に迎えた喜びを知って、そこに留まるように、お互いを促し合いなさい」と言われるのです。

 ”十字架が、私の罪を洗って下さると信じる時、闇に支配されていた私共の心に光が与えられる”のです…そして私共がする小さな行いの中に愛の光が灯るのです。

 この教会でも、朝早く来てご高齢の方々の為に,聖書や賛美歌を開いて下さる姉妹がおられます。そうした行為の中に光を見ます。また、悔い改めて、光を与えられた私共が、”お互いの為、祈りあい、共に十字架の赦しの下に生きようと促し合う中に、主イエスの弟子としての光る姿がある”とイエスは言われるのです。