「キリストと拘りのある者達」

ヨハネによる福音書13章1~11節 
◆弟子の足を洗う
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。


ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


           キリストと拘りのある者達

ヨハネによる福音書13章1~11節.2006.10/22

 時は「過越しの祭りの前」…木曜日の夜の事でした。イエスは、十字架に架かられる前日に弟子達の足を洗われたのです。場所は、最後の晩餐がもたれた二階座敷でした。この所から2回にわたって語りたいと願っています。

 ヨハネ福音書13:1に「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た事を悟り…」とあります。ここの「移る」という言葉には、「超越する」という意味もあります。イエスは、いよいよ”この世から、父なる神のもとに、死を超越(十字架と復活)して帰る時が来たと悟られた”のです。

 同じ13章1節の後半に、「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります…ここでは、”「愛」という言葉が二度”重なっています。これは、”イエスが弟子達への愛を貫徹された”と言う事なのです。

 ヨハネ福音書19章30節に、イエスの十字架の最後の言葉が記されています。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」とあります。「父なる神よ。私は、あなたから委ねられた、私の者達を愛し抜く愛を成し遂げました」と言う事です。

これは、今朝読みました13章の「この上なく愛し抜かれた」に、こだましている言葉なのです。 

 この1節には、”イエスが愛し抜かれたのは、「世にいる弟子達」であった”とも記されています。しかし、この箇所に関しては”口語訳聖書の「御自分の者達」の方が、ギリシャ語の原文に近い”と言われます。

その方が、”イエスが愛し抜かれたのは、弟子達はもとより、十字架で救いに預かった全ての者達であった事が明確に分かるから”です。

 所で、このイエスが「御自分の者達」と言われ愛されたのは、”何時も主イエスを愛している、忠実なクリスチャン”ばかりではなかったのです…”むしろ逆”です。”イエスは、ユダやペトロが御自分を裏切る事を御存知だったのに、最後まで愛し抜かれた”からです。

 次に”洗足”について学んで参ります…”洗足は、普通は食事の席に着く前におこなうもの”でした。所が此処では皆が席についていたのです。

 当時、洗足は奴隷の仕事、それもユダヤ人の奴隷でなく、身分が下の異邦人の奴隷の仕事でした。この時、全ての弟子達の心には、「偉くなりたい」と言う思いがあり、反目しあっていたので、誰も足を洗い合わず最後の晩餐の席に着いたのでした。

 そんな空気を読まれたイエスは、立ち上がって弟子達の足を洗い始められたのです…ペトロは、そんな先生の姿に腰を抜かす程驚いたのでした。
 さらさらと流れる水の音、主イエスが膝をかがめて、弟子達の汚れた足を洗われる音です。

 皆、緊張してイエスの仕草を見、流れる水の音を聞いていた時、イエスは、「私のしている事は、今あなたには分からないが、後で分かるようになる」と言われたのです。

では後で何が分かったのか?と申しますと、「この洗足は、人の魂の汚れを聖める十字架を指し示している事。そして、この十字架による心の洗いを受けなければ、人はキリストの者となる事は出来ない」という事です。

 ”後に、イエスが十字架に架かられ、復活し、昇天されて、そのイエスから聖霊を受けた時、初めて、「十字架によって魂が洗われる=罪赦される」その恵みの意味が分かった”のでした。その恵みが分かった時、”ペトロは伝道者になり、殉教者に迄なった”のでした…主イエスとの関係が生まれた”のです。

 ハイデルベルクの信仰問答という教理集の一番最初の問いに「あなたにとって、生きている時も死ぬ時にも唯一の慰めは何か?」という問いがあります。

その答えは、「私がもはや、自分のものでなく、身も魂も全存在がキリストによって贖われて、主イエス・キリストの者となっている事」と言うものです…”人にとって、イエスの者とされる事こそが、この世で一番の慰め”だと言うのです。

 この教理集を読まれた、一人の心の病を負った婦人の証をご紹介します。「あなたは、あなたのものではない。私(イエス・キリスト)のもの」という文を読んだ時、自分が何故、心を病んだのか、その意味が分かりました。私は、洗礼を受けてから、自分の力で立派なクリスチャンになれると思って来ました。

 牧師の前で、立派なクリスチャンとして振る舞う事に熱中して来ました。隣人を愛する時も、自分が愛そうとして来た事に、今、初めて気づきました。

 今、私はイエス・キリストの愛の御手の中で、ありのままで愛され、ありのままキリストの者として生かされている喜びが分かりました。まだ病は治っていませんが、これから明るい思いで病と闘っていける気がします」というものです。

 ”イエスは、ユダやペトロの裏切りをわかっていながら足を洗われた”のです…それは、”ありのままで愛される主のお姿です。あのユダさえも、イエスの愛から落ちていなかった事を物語っている”のです…”それゆえ私共も、今、イエスに、御自分の者達として愛し抜いて頂いていると信じる事が出来る”のです。

しかし、主イエスは、とも言われたのです…ヨハネ福音書は、”ユダの裏切りの背後に悪魔の働きがある”と見ています。”イエスは、悪魔に心を奪われ、自分を裏切ろうとしていた事を見抜きながらユダの足も洗われた”のでした。それは、”裏切り者に、最後まで悔い改めのチャンスを残しておられた事”を物語っています。

 見方を変えれば、「ありのまま愛し抜いて下さるイエスの愛の中にありながらも、その愛に背を向け、愛を受け入れないなら、サタンに支配され、イエスの愛から墜ちてしまう…今、私の愛から墜ちようとしている者がいる」という、主の痛切な言葉だったのです。

 それが「あなた方はきよいのだが、皆が清いわけではない」というお言葉だったのでした。

 しかし”ユダは、最後のイエスの招きを拒み、闇の中へと出て行った”のでした。この”ユダの姿は特別な姿ではありません。イエスの愛を受け、救われながら、イエスの愛に心を閉ざす事は誰にでもあるから”です…誰もがユダとなっている一瞬があるのです。

 ”御言葉を通して、聖霊が、私共の心に罪を示し、同時に、十字架の愛をも示して下さる時、それは、イエスが私共に向き合って、心を洗おうとして下さっている時”なのです…”その時に悔い改めないなら、主に「私とあなたとは関係ない」と言われてしまう”のです。

 ですから私共は、”どんな罪を犯した時でも、イエスがユダを愛し抜かれたように、主は今、私共を御自分の者として下さっている事を、堅く信じ合いたい”と思います。 そして礼拝において、また聖餐に預かる毎に、”弟子達を洗足に招かれたように、主は、御自分の者達の魂を十字架で洗おうとして、名を呼んで下さっている事を見上げたい”と思います。