「愛による献げ物」
ヨハネによる福音書12章1〜11節
◆ベタニアで香油を注がれる
12:1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
12:3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
12:4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
12:7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
12:8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
◆ラザロに対する陰謀
12:9 イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
12:10 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
12:11 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

ローマ12章2節
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる
ようになりなさい。

ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995


           愛による献げ物

ヨハネによる福音書12章1〜11節.ローマ12章2節.2006年10/15

 2週前に、ラザロのよみがえりのお話をしました。今朝は、マルタ、マリヤ、ラザロの3人の兄弟の中の次女マリヤがした、香油を注いだ物語から、神の言を聴いて参ります。

 イエスと弟子達は、工ルサレムに向かって、最後の旅をしていました。工ルサレムまで、あと2,8qに迫った時、一行は、少し前にラザロをよみがえらせたベタニヤの村に宿をとる事にしました。

 ラザロの姉マルタは、感謝の心を込めてご馳走をつくり、イエスと弟子達をもてなしたのです。十字架を目前にしていた主にとっても、慰めの時だったろうと思います。

 最後の晩餐の絵画は、椅子に座って食事をしていますが、本当は、当時の食事は、寝そべって、肩肘をついて、話に花を咲かせながら、ゆっくりしたそうです。行儀悪く感じますが、とても消化によい姿勢らしいのです。

 その席に、あのラザロもいたのです。皆、そのラザロのよみがえりの話題で盛り上がっていたと想像できます。マルタも改めて感謝の言葉を述べていた事でしょう。しかし、そこに”次女のマリヤが居なかった”のでした…やがてみんながその事に気づき出しました。

 そこにマリヤは小さな白い壺を抱くようにして入って来たのでした。マリヤの張りつめた表情に、場にいた人々の間にも緊張が走りました。マリヤは黙したまま、おもむろに、持って来た白い壺を割ったのです。「あっ」と人々から声が上がり、辺りはたちまち香油の香りに包まれたのでした。

 その香油の量は一リトラ(300g)でした。また、そのナルドの香油は、一年分の給料相当の高価なものでした。ナルドは植物の名前で、チベットが原産地です。根と茎からよい香料が取られ、それがインド・ペルシャを経由してイスラエルに輸入されていました。

 そして、マリヤは、自分の髪の毛で香油を拭いたのです…ユダヤでは、人前で頭髪をほどく事は、婦人の恥と考えられていたので、それは、なりふり構わぬ行為だった事が分かります。

 マリヤは、”何時もイエスが何を考え、何を欲しているかを、第一に考える人”でした…そんなマリヤゆえ、”イエス様がもうじき、十字架に架かられる事を悟っていた”のだと思います。

 更に驚くべき事があります…”このナルドの香油注ぎは、「葬り」の備えだった”という事です。”油注ぎには、死体に塗る香料、死体の処置の意味があった”のでした…他の弟子たちは、主が、何度、十字架予告しても分からなかったのと対照的です。

 イエスはナルドの香油の香りに包まれたまま、十字架に架かり、葬られ、そして復活されたのです…その香りは、どんなにイエスの心を慰め、励まし、喜ばせたか知れません。

 これはキリストの血潮で救われたクリスチャンの姿です。”救われた者の心には、聖霊が住んで下さいます…その事によって、クリスチャンはキリストに似た者に変えられて行く”のです…そして、また”心に聖霊を宿す者は、キリストに喜んで頂く事を考える様になる”のです。

 しかし、弟子達の会計係だったイスカリオテのユダは、このマリヤの行為に対して怒り出しました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」…常軌を逸したように見えたマリヤの行動を、「勿体ない」と言って非難したのでした。分からないでもありません。

 しかし、ユダの批判は善意から出た言葉ではなかったのです。6節に「ユダが盗人であり、その中身をごまかしていた」とあるからです。の会計係であったユダは、お金を着服していたので、それだけのお金があれば補填してごまかせると考えたようです。

 ある本には、”ユダは自分の利益の為に信仰生活を営んでいた”ともありました。ミッションスクールの教授の中には、出世の為に洗礼を受ける人がいると聞いた事があります。それと同じ事なのでしょう。

 Tコリント13章3節に「たとえ自分の全財産を貧しい人々の為に渡しても、もし愛がなければ無益である」とあります。”ユダの信仰行為は、全てが計算尽くの愛の無いもの”だったのです…イエスは、ユダの意見を喜ばれず、”マリヤの愛の香りがこもった献げ物を喜ばれた”のでした。

 アロマ・セラピー(芳香による癒し)が言われている昨今ですが、良い香は人の気持ちを癒す効果があります。聖書においても「香り」は、”神を喜ばせる鍵の言葉”なのです。

 旧約聖書のレビ記1〜4章で、”神は香りを献げる事を求められ”ています…”罪を悔いて謝罪する、心の香りを神は嗅がれた”のでした。

 ”旧約聖書時代、罪は命をもってしか償えないもの”とされていました…しかし、それでは幾ら命があっても足りません。それゆえ神は、家畜の命を身代わりの生け贄として求められたのでした。

 ”当時、家畜は、自分の命に匹敵する程、大切な財産だったから”です。”罪というものは、神の御前でそれ程重い物”なのです。民が、自分の命の代わりに、痛みつつ差し出した生け贄の燃える”「香り」を、神は嗅がれて、人々への罪の怒りを静められた”のでした。

 ”マリヤの献げ物の愛の香りは、香油だけでなく、計算を超えた行動にも現れていた”のです。そして、それが、”イエスを殺そうとしていたユダヤ人の指導者の計算をも狂わせて行く”のです。

 ”ユダヤ人は、毎年、過越の祭に小羊を屠り、過ぎし一年間の罪を悔い改め、神の贖いを祈っていました”。そして二千年前、”神は、一度限りで完全な、全人類の罪の贖いを成し遂げる為、独り子を、神の小羊として送って下さった”のでした。

 ”過越の祭中に、イエスが十字架に架けられる事は、主イエスこそ、人の罪を贖うと預言させていた神の小羊(救い主)と証明してしまう事になる”のです…それゆえユダヤの指導者達は、”過越の祭中に、イエスを処刑する事だけは避けたかった”のでした。

 過越の祭りが終わってから、犯罪人として、ひっそりと処刑したかったのです。

 しかし、”このマリヤの常軌を逸したようにすら見える、愛の献げ物は、彼等の計画を狂わせて行く”のです。

 ”マリヤはイエスを救い主(王の王)と見抜いていた”のでした。それで油を注いだのです…”油注ぎは、王としての即位の時と、王を葬る時にした儀式だった”からです。”イエスがマリヤから油注ぎを受けられたのは、神の皇太子として、御自分を公に現される為でもあった”のです。

 ”それを見たユダは焦りだし”ました。「急いでイエスを殺さなければ、神の皇太子(神の小羊・救い主)を殺したという噂が広がってしまう」と思い、律法学者とファリサイ人と進めていた”イエス殺害計画を急ぎ出した”のでした…それによって、”彼等の計画が狂った”のです。

 ”マリヤの愛の献げ物は、イエスの死が、神の小羊としての贖いの死として立証する結果につながった”のでした。

 先週、北朝鮮が核実験をしてしまいました。「とうとうしてしまったか」という思いです。今、アジアは戦後最大の緊張の中にあると感じています。
 日本のクリスチャンも、清い手を挙げて、アジアの平和の為、世界の平和の為に祈る時が来たようです。そんな大きな問題に対して、個人の祈りの力をいぶかる方がおられるかも知れません

 しかし、マリやのようにイエスを愛する信仰の行為は、人間の計画を打ち砕く事が出来るのです。

  ローマの信徒への手紙12章2節に「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全な事(イエスを愛する愛の完全)であるかをわきまえるようになりなさい」とあります。

 このご命令は、”神を愛する事によって、神の計画が成就する”という事なのです。私共も、自分の人生の計画が狂い、不安、恐れに支配される事があります。

 しかし、”私共は、生ける神の眼差しの御前で生かされている事を忘れてはなりません。そんな時こそ神を忘れず、イエスを愛し抜き、イエスの御言葉に聴いて歩むなら、私共の人生に、神の御計画が成就する”のです。