「祝福を携えて」
ロ-マの信徒への手紙15章22〜29節
15:22 こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてき ました。
15:23 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたの ところに行きたいと切望していたので、
15:24 イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、し ばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出 してもらいたいのです。
15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々 を援助することに喜んで同意したからです。
15:27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人た ちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。
15:28 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した 後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。
15:29 そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行く ことになると思っています。
Uコリント8章9節
「あなた方は、私達の主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなた方の為に貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになる為だったのです」
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「祝福を携えて」
ロ-マの信徒への手紙15章22〜29節、2005年9月4日
この朝は、神の言であるロ-マの信徒への手紙15章22〜29節から、”クリスチャンは、神の祝福を携えていく者である”という事を聴いて参ります。
伝道者パウロがロ-マの信徒への手紙を書き終える頃、”パウロにとって悲願であったローマ行きの可能性が出て来ていた”のです。”確かに、この後、工ルサレムに行ってからローマに行く事が出来ました”。しかし、それは”パウロの計画通りではなかった”のです。
”神がとられた方法は、パウロが、今から向かう工ルサレムの地でロ-マ当局に捕らえられ、囚人としてローマに護送される”というものでした。
しかし神のなさる事は不思議でして、最も望まない形である囚人としてではありましたが、見方を変えると、”無料で、しかもローマに到着するまでは安全が確保され、しかも、裁きを受けるという形でしたが、ローマ皇帝に謁見して福音を弁明できる唯一の方法”だったとも言えるのです。
パウロがローマに到着する前に、彼の手紙は先に届いていました。まだ見ぬ自分達の事をパウロが知っていてくれる。そんな心待ちにしていたパウロとの初対面の時が、ついにきたのです…しかし、パウロは”囚人として連れられてきた”のでした。
ローマ15章29節に「その時には、キリストの祝福を溢れる程持って、あなたがたの所に行く事になると思っています」とあります…この「思っています」は、口語訳では「知っている」と訳されております。
パウロは囚人として、ローマに護送されていきました。しかしパウロは、驚くローマの教会の人々の顔をみても、自分は、お土産を携えて来た事を知っていたので、動じる事なく、喜びに満ち溢れていた”のでした。
その”お土産は何か?”と言いますと、29節、”「キリストの祝福(祝福というのはキリストが共にいて下さる事)」というお土産”だったのです。しかし、原文のギリシャ語では、「(キリストの)祝福を持って」という言葉は、「(キリストの)充満の中で」となっているのです…”自分が行く所に、キリストの臨在が、自分を包んで共に行って下さる”という事です。
パウロは何も持たなくとも、”最も尊い、主の臨在というお土産が、自分と共に行ってくれている事を知っていた”のでした。
Tペトロ3章9節に、「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐ為」とあります…”全てのクリスチャンが、キリストの臨在に包まれて歩む祝福に預かっている”のです。
聖書は、”十字架の罪の贖いを信じて救われた者は、「聖霊の住む宮」とされる。また、「キリストの躰」とされると約束”しています。
これは、”キリストが、クリスチャンの心の内に住んで下さる”という事なのです…”その信仰に生きているクリスチャンは、日頃の自分がそこに行けば、そこにキリストの臨在という祝福が広がって行く”のです。
”クリスチャンは皆、そのような者と変えられている”のです…”この事を受け入れて経験して頂きたい”のです。私共が”礼拝を終えて家族の下に帰る時、また、学校や職場に行く時、”私共はキリストの祝福(臨在)をお土産に持つ者として、神に遣わされている事を経験して頂きたい”のです。
25節では、「しかし、今は、その前に工ルサレムに行かなければならない」と言っています。これまでパウロは心砕いて、”マケドニヤとアカヤというギリシャの教会”の人々に、”母教会(本山)である工ルサレム教会への大きな献金を呼びかけていた”のです。
そして、このローマの信徒への手紙を書き終えようとしていたこの頃、ようやく献金が集まったので、ロマ書を書き終え次第、”献金を工ルサレムの教会に届けるつもり”でいたのでした。
しかし”パウロの心はこの時、晴れやかではなく、大きな不安に覆われていた”のでした…
”エルサレムの教会は、各地に、神の祝福を携えた伝道者を送り、異邦人の地に教会を開拓した母教会”でしたが、”困った事に、工ルサレム教会と、子教会である異邦人教会との間はしっくりいっていなかった”のです。”工ルサレム教会は、ユダヤ人達が占めており、ユダヤ教色の強い信仰の生活習慣を続けていた(律法を引きずっていた)”からでした。
一方、”異邦人の地に開拓された教会は、純粋に福音(恵みによる自由)に生き”ておりました。そんな”異邦人教会が、ユダヤ教を引きずっている工ルサレム教会を受け入れる事は困難”でした。
しかし”異邦人教会には問題もありました…偶像礼拝を引きずっていた人々がいたのです。偶像礼拝のある所には、不品行が起きてきます。不品行に染まっている者達もいた”のです。この事は、”律法を厳格に守って生きてきた、元ユダヤ教徒であった工ルサレム教会には受け入れられない事”だったのです。
こうした事が、”両者の間に、偏見を生み”、せっかくの愛と善意のこもった”異邦人教会の献金を、工ルサレム教会が、へそを曲げて受け取らない可能性があった”のです。
ですから”パウロは、「彼等が心を開いて、この献金を受け取ってくれるように祈って欲しい」と必死に祈りの援護を頼んだ”のでした。”「工ルサレム教会が、異邦人教会との間に、キリスト見て貰えるように祈って欲しい」と祈りを求めた”のでした。
パウロは”ローマの教会”には、”神の祝福”という”霊的なお土産”を持って行こうとしていたのです。一方の”工ルサレム教会”には、”献金という物質的な祝福をお土産”として持って行こうとしていたのです。
献金した異邦人教会について27節に書いてあります。「彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人達の霊的なものに預かったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」…この「肉の物で彼等を助ける義務がある」という事を、口語訳では「負債(借り)を返す」と訳しています。
”霊的な祝福を受けたら、肉的な物で返す義務がある。それも相手を祝福する事だ”と言ったのでした。
”異邦人の教会は、このパウロの言葉を聴いて、苦々しく思ってきた工ルサレム教会に献金する事に喜んで同意した”のでした。パウロは嬉しかったと思います。しかし敢えて、”それは借りを返す義務である”と毅然と言ったのです…それは、”代々に続く教会に対して言う為だった”と思うのです。
教会で聞く言葉に、”コイノーニア”という言葉があります。これはギリシャ語で、”交わり”という意味の言葉です。元々”1つの物を分け合う共同体の姿こそ、交わりの姿だから”です。
”教会は、主イエスの臨在という霊的な祝福を分ち合う共同体”なのです。そこには、意見が違う者、対立しあう人達もいるかも知れません。しかし、”同じ神の霊(聖霊)に預かり、同じ主イエスの臨在を分かち合う時、その交わりは感情を乗り越えて、困っている人々を助け合う交わりとなる”のです。
最後に、Uコリント8章9節をお読みします…「あなた方は、私達の主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなた方の為に貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになる為だったのです」とあります。
”主イエスが、神の独り子である、御自分の豊かさを捨てて、貧しくなって人となって下さった。その事によって、私共は、”神の愛と聖さと忍耐の深さを知る事が出来ました。更に、十字架の救いを頂いた”のです。
”その恵みを受けた私共も、負債をかえすようにお応えするのです…霊肉ともに、分け合い貧しくなってお互いを祝福しあう”のです。”ギリシャの異邦人教会は、豊かだから工ルサレムの教会を援助出来たのではありません”…”彼等も貧しかった”のです。
更に、”工ルサレム教会に対してしこりがあった”のでした。しかし、”自分達が今預かっている「主イエスの臨在という祝福」は、工ルサレムの教会が分けてくれた事を、主イエスに示されたので献げる事が出来た”のでした。これが、”キリストの臨在という祝福 を分ち合う貧しさに生きる”という事なのです。
先週持たれた”キャンプ委員会”で、韓国伝道チームの話がでました。彼等は交通費や参加費も自費で献げて参加して、文字通り手弁当で参加して下さり、キャンプでも一途に仕え抜いて下さったのです。韓国の教会は、”献げれば与えられる”という信仰が徹底しているのです。そして、その”信仰の姿勢が、クリスチャンが人口の40%という祝福となった”のです…キリストの臨在という祝福を、貧しくなって分かち合った事への祝福です。
29節をもう一度お読みします。「その時には、キリストの祝福を溢れるほど持って、あなた方の所に行く事になると思っています」と…。私共も、この朝、”キリストの臨在という祝福を携えて行き、この恵みを分ち合うクリスチャンとして下さい”と祈りたいと願います。