「善にはさとく悪にはうとく」
ロ-マの信徒への手紙16章17〜24節
16:17 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
16:18 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
16:19 あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
16:20 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
16:21 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
16:22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
16:23 わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
16:24 (†底本に節が欠落 異本訳)わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「善にはさとく悪にはうとく」
ロ-マの信徒への手紙16章17〜24節、2005.9月25日
このロ-マの信徒への手紙の学びも、今日を入れて後2回となりました。先週学んだ箇所には、共に主イエスを愛して、主に仕えたクリスチャン達を、パウロが珍しく思いを込めて、推薦した言葉が記されておりました。
おそらくこの手紙はローマの教会に届けられた後、礼拝で読まれました…そこで自分の名が呼ばれて、「この人は主イエスと共に歩んでいる人だから、あなた達の共同体に自分の躰のように受け入れて欲しい」と推薦する言葉を聴いている人々の晴れやかな顔が浮かびます。
そんな和やかな礼拝での、手紙の朗読の最後の最後になりまして、急にまた込み入った事をパウロは言い始めたのでした…というのは、パウロは、”この事を言いたくてこの手紙を書き続けたから”なのです。
17節に「兄弟達、あなた方に勧めます。あなた方の学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい」とあります…今迄「教会はキリストの躰なのだから、あなた方はお互いを、自分の躰のように受け入れなさい」と言って来たのに、ここで急に、「警戒しなさい。遠ざかりなさい」と言い始めたのです。
この「勧めます」という言葉は、「警告する」とも訳せる言葉だそうです。パウロは突然、「あなたがたに警告します」…と、”何故、パウロは、礼拝の和やかな雰囲気をぶち壊すようなシビアな事を言ったのでしょうか?”
何故なら、”パウロは、いくつもの教会が、平和を失い傷ついているのを見て来たから”でした。先日、友人の牧師から頂いたメールには、「多くの教会が傷つき。多くの牧師が傷ついている。教会の中で、皆が正しいと思って批判し合い。自分の意見を主張し合い。互いを傷つけあっているのです」と書いてありました。「本当にそうだな」と思いつつ「自分もそうかも知れない」と思い反省しました。
18節”「こういう人々は、私達の主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている」。この、「自分の腹に仕えている人の姿」はこうです…”自分の意見が正しいと思って、批判や意見をしているが、その根底(腹)にあるのは、自分の考え、感情、怒りという姿”です。
時には御言葉さえも担ぎ出して、一見、筋が通っていても、キリストに祈って、御心を問うていないので、そこに「神の愛(アガペーの愛)が無い」”のです…その結果、”教会が傷つき、不和や、分裂さえ起きてしまう”のです。ですから、”クリスチャンは、いつも、自分に神の愛があるか?”と問う必要があるのです。
パウロの、”「教会は平和を、単なる言葉として祈るのではなく、切なる求めとして祈って欲しい」”という思いが、パウロの口を突いてシビアな言葉が出て来たのでした。
或る注解者は「おそらく、この時パウロは、涙を流しながら、キリストの躰である教会の平和を傷つけてはならない。分裂させてはならない。兄弟達よ、この事を心深く心に留めて欲しい」と言ったと言うのです。
20節になりますと、この警告は祈りとなります…「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。私達の主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」と言う”祈り”です…「あなたが、”キリストの御心(主の愛)を第一にして歩むように…。その中で、平和の神が、サタンを足の下に打ち砕き、教会に神の平和を下さるように」”と祈ったのでした。
と同時にパウロは、”私共自身が、サタンの餌食にならないように、信仰の心構えについても言及した”のです。19節に「…善にさとく、悪には疎くある事を望みます」とあります。ここに「善にさとく」とあります…”上智大学”という”ドイツ系のカトリック系の大学”がありますが、この”上智”というのは、”善にさとい心”と言う言葉から付けた名なのだそうです。
”「善にさとく無い人」は、20節に「サタン」という言葉が出てきますが、「サタンの餌食になってしまう人の事”なのです…18節に「主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている人」とあります。”自分の腹に仕える人こそが、善にさとくない人”なのです。
フィリピ3章18〜20節では、その”罪の恐ろしさ”を言うのです…「…今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着く所は滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世の事しか考えていません。しかし、私達の本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私達は待っています」。
身が引き締まる思いがします。”何故なら、キリストを第一にしないで、自分の腹(感情、思い、怒り、打算)に仕える事は…おそらく多くの人々が当てはまる事だから”です。ですから、この、”自分の腹に仕える”のは、”誰もが犯してしまう過ち”なのです。
そうすると、”誰もがサタンの標的”だと言えるのです…私達は、”自分の腹に仕えていないか?、神の国と神の義を第一する事から逸れていないか?と絶えず問い、一刻も早く、気づかなければならないのです。
非や足りなさが相手にある時もあります。善意が誤解されたり裏切られて傷つく時もあります…しかし、クリスチャンは、苦しみつつも、許せる時、神が働いて下さる、神の時が来るのを祈り待つ”のです。”教会は、キリストの愛で、相手を生かす為に赦す愛の場”だからです…”この神の愛に生きる事が全てに勝る教会の律法”です。ですから、「この愛の律法を忘れて、福音に背いている者に対しては、祝福を切に祈りつつ離れていなさい」とパウロは言ったのでした。
先週の祈祷会で、”エサウとヤコブが20年かかって和解した”事を学びました。兄エサウを騙して、長子の権を奪って叔父ラバンの下に逃げ出したヤコブでした、そこで多くの辛苦を舐めて人間的に成長した時、”神は、エサウとの和解の時が到来した事を示された”のでした。
そして、故郷へ帰る事を決め、一族を連れて帰路についた時、”ヤコブは、また大きな不安に襲われ、ヤコブはまた元来の策略を巡らしたのでした。それでも平安が来ません。そこで御言葉の約束を持ち出して祈りましたが、神は沈黙され、平安は来なかった”のでした。
そこで”有名なヤボクの渡しの場面が登場する”のです…”一族を先に川を渡らせた後、ヤコブは、1人神の御前に出て祈り出したのです”…その”祈りは正に戦い”でした。
それ迄のヤコブは、”神は信じたものの、自分の腹に仕えるまま”でした。ここで「神主権に生きる真の神の民になる戦いをする」のです。”明け方、み使いは、勝てないと見て、「ヤコブのももの関節を外した」”のでした。それでもヤコブは、「御使いを祝福して下さる迄は離しません」と言ったので、御使いは、「お前の名は何というか?」と問いました。
”ヤコブは。「はい。私はヤコブです。私は押しのける者です」と告白した”のでした。これが”彼の人生を狂わせてきた、彼の自我の本質”でした。”「もものつがいが外された」のは、”自我が砕かれた事”=ヤコブは、もう神に拠り頼む事なしには歩めない者とされた”事を意味しているのです。
これが”聖化の経験”なのです!…ここでヤコブが、、”自我が砕かれ、神主権に生きる者(神を主人とする)者と変えられなかったならば、おそらく、兄エソウは、一瞬にして、ヤコブの本質(人を押しける)のが、そのままだと見抜き、四百人の軍勢で、ヤコブの一族を滅ぼしたに違いありません。
しかし、砕かれて聖められたヤコブとエサウの間に、平和の神は責任を持って介入して下さったのです…神は、兄エサウにヤコブへの憐れみの情を与え、放蕩息子の父親のように、ヤコブに駆け寄り、涙の中で抱きしめた”のでした。
神の御前で砕かれ(聖められ)て、神に赦され、受け入れられて、神との平和を回復したヤコブだからこそ、兄エソウとの間を神に委ねる事が出来た”のでした。
”教会の中には、主イエスの御心を第一にする人と、自分の腹に仕える2通りの人がいる”とパウロは言うのです。いえ、”自分自身の内にも2通りの人がいる”のです…”ですから、パウロは、お互いの為、祝福を(主イエスと共に歩むように)祈りあいなさい”と言ったのです。
最近、「人は怒りに支配されると視野が狭くなる」という言葉を聴きました。「なるほどなあ。もっと〜早く聴きたい言葉だった」と思いました。私達は”自分の感情や怒りに支配されると、主イエスの御心を見失い、サタンの餌食となって、福音に背き教会を傷つける者とさえなる”のです。ですから”パウロは、クリスチャンが留まるべき福音をこのロマ書に記した”のでした。
この朝、私共は、「善にさとい者になりなさい…自分の腹に仕えるのでなく、キリストの愛の心に仕える者になりなさい。あなたはキリストの躰である教会の平和を壊す者になってはならない」という神の言を聴きました。
しかし、私共は、教会の中だけでなく、自分の中にも、この福音に反して、自分の腹に仕えようとする自我を見い出します。自分の内に、群れの内に、福音に反する心、神の愛に反する心を見い出した時、「私達をキリストの福音(祝福)に留まる者達として下さい」と祈って参りましょう。