誇りに生きるクリスチャン

ロ-マの信徒への手紙15章28〜33節

15:28 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。
15:29 そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。
15:30 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、
15:31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、
15:32 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。
15:33 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
祈りの援護」

               ロ-マの信徒への手紙15章28〜33節、2005年9月11日

 この朝、共に神の言として聴く御言葉は、ロ-マの信徒への手紙15章28〜33節です。今朝は30節の「どうか、私のために、私と一緒に神に熱心に祈ってください」から,「祈りの援護」について学んで参ります。

 「私の為に祈って欲しい」という思いは、全てのクリスチャンが経験した事のある思いだと思います。

 先週の台風の前に、教会の母子室が雨漏りしていたので補修と検査をして頂きました。その結果、原因は建築時の手抜き工事と分かり、こんどの台風が来た時、この補修でもてば良いが、もし駄目なら大規模な屋根の修理が必要になると言われていた為、先週の礼拝で皆さんにお祈りのお願いをしたのです。

 朝、雨漏りがないのを確認した時、心から主の御名を崇めました。何人かの方が心配してお電話を下さった事に感謝致します。背後の祈りを感じました。

 ”人が誰かに祈りをお願いする時、その人にとって、それは切実な問題”なのです…どうぞ、そうした時には、”自分の問題の事のように切に祈り合って頂きたい”と思います。”そうした中でクリスチャンは、1つのキリストの躰とされている人に祈って頂いている事が、どんなに心強いかを知る事が出来る”からです。

 伝道者パウロは、「私と一緒に神に熱心に祈ってください」と言いました。ある私訳では、「共に苦しみ悶えて祈って欲しい」と訳しているのです…ローマは,古代オリンピックの発祥の地の近くにあり、スポーツの盛んな地にありました。

 勝者には、賞金や、名誉をたたえて月桂冠が与えられました。競技者は勝者になる為に、まさに、”苦悶しながら、自分の限界に挑戦した”のです。

 昨年のオリンピックのNHKのテーマソングに、「栄光への架け橋」という歌がありました。歌詞を御紹介します。

「誰にも見せない泪があった。どうしてか流した泪があった…哀しくて眠れない夜があった。怖くて震えていた夜があった。もう駄目だと全てが嫌になって逃げ出そうとした時があった。何度も何度も諦めかけて、さまよった現実と夢の狭間。いくつもの危機を超えて、辿り着いた今がある」

という競技者の姿を歌っている歌詞でした。

 オリンピックが古代から現代まで人々に感動を与えるのは、「人々が苦悶しながら、自分の限界に挑戦する姿の美しさ」のゆえと言われます。パウロも”コリント書”で、”クリスチャンの歩む姿を、「目当てに向かって走り続けているランナーの如く、或いは相手を打ち倒す為に必死に力を振り絞っている戦う者ように生きている」”と言ったのです。

 その”クリスチャンの戦いは、祈りの戦い”なのです…たとえば”創世記32章”に有名な物語があります…”ヤコブが夜を徹して神の使いと相撲を取ったお話”です…”祈りは、正に格闘のように「神さま、この願いを聴いてください」と激し思いをぶつける所”だからです。

 ”主イエスも十字架に架かられる前夜、ゲツセマネの園で、汗を血のように滴らせながら祈られ”ました。

ルカ22章40〜46節「いつもの場所に来ると、イエスは弟子達に、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届く程の所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」

すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子達の所に戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」

 ”主イエスも十字架を前に、神の御心を歩む為に、切なる祈りの戦いをした”のです。また”弟子達にも切なる祈りの援護を頼んだ”のでした。 ”人は祈りの中で自分の弱さを知る”のです…”祈りの座から逃げさせようとする力が、諦めさせて神に食らいついて祈らせまいと誘惑する力が自分の内にある事に気づく”のです。

 ”祈りは神に願う事から始まり”ます…しかし、”聖霊は,祈りの中で、私共の祈りの内容を変えて下さって、だんだん私共の願いを、主イエスの思いと1つとして下さる”のです。

 もう1度、”30節”を見ます。「私達の主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えて下さる愛によってお願いします。どうか…私と一緒に神に熱心に祈って下さい」とあります。

 ここにある、”霊が与えてくださる愛”というのは、”聖霊が与えて下さる愛”の事で、”新訳聖書の中でも、此処にしか出てこない珍しい表現”です。祈る者達には分かります…”人は祈りの中で、生まれながらの自分にない、神の愛(アガペーの愛)を与えられる”からです。

 次にパウロが祈りの援護を願った、”祈りの内容”を見て参ります。

 1つ目の内容は、先週、お話したように、「異邦人教会から集めた尊い献金を、工ルサレム教会が心を開いて受け取ってくれるように」という事でした。

 2つ目は、15章31節「私がユダヤにいる不信の者たちから守られ」…”パウロはかつて、クリスチャンを迫害していたユダヤ教徒のリーダー”でした。

しかし、ある時、キリストに捉えられ「サウロよ、サウロ(パウロがユダヤ教徒だった時の名)。何故、私を迫害するのか?」という復活された主イエスの御声を聴いて、眼から鱗が落ちるように、”キリストが救い主である事を知って救われ、今度は、キリスト教徒のリーダーと成った人”でした。

”ユダヤにいる不信の徒”というのは、”ユダヤ教徒”の事だったのです…「ユダヤ教が預言し待ち望んでいる、救い主こそイエス・キリストである」という”福音を受け入れないユダヤ教徒”の事でした。

 ”ユダヤ教徒達”にとって、”パウロは裏切り者のシンボルだった”のです。

 使徒言行録を見ると、”「パウロを殺すまでは、食べ物も食べなければ、飲み物も飲まない」と憎しみに凝り固まったユダヤ教徒の数が40名もいた事”が記されています。この時”パウロは、そんな人々がいる工ルサレムに帰ろうとしていた”のでした。

 この後パウロは、その工ルサレムの地で”ローマ当局に捕らえられてしまう訳ですが、その40名もの刺客の手から守られるのは、この道しかなかった”のです…”神は、援護の祈りに応えられて、パウロが逮捕されるという形でパウロの命を守られた”のでした。

 3つ目の内容は、15章32節「こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩う事ができるように」でした。「工ルサレム行きを祝福の内に終えた後、悲願のローマ行きが実現して、ロ-マで祈って下さっている人々と出会い、その中で憩えるように」という事です。

 この「憩う」という言葉は、「休息する」事です…”聖餐”の度毎に読まれる「招きの言葉」に”マタイ福音書11章28節”があります。「全て重荷を負うて苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう」が、この”主イエスの下にある休息の事”なのです。

 祈りの中で。「もう、大丈夫。何の心配もいらないよ。(いと安かれ)」という主イエスの御声を心で聴くのです…この事が本当の安息だと思うのです。

 しかし、ここには、「あなたがたのもとで憩う…」と、「もとで」という言葉が付いています。
 それは「共に」という言葉です。交響曲(シンフォニー)というものがあります。”様々な楽器の響きが交わる芸術”ですが、”主イエスの下で共に憩う”というのも、「主イエスの下で憩う者達の安らぎが響きあう」という事なのです。

 正に,この”過ぎし週、祈りの中で、主イエスの下で安息に預かった者達が、週に一度集いあい、その安息が響きあう場こそが、礼拝の姿”なのです。

 ”主イエスの下で憩う安らぎ”を旧約聖書のイザヤ書11章6節が具体的に書いています…終末(世の終わりに、キリストが王として支配する新天新地)の預言の箇所です…「豹は子やぎと共に伏し」。”豹と子やぎが一緒に寝る平和な世界が訪れる”というのです…それは,”どんな間柄の人も、主イエスの下にある時、安らぎ合う事が出来る”というのです。

 私共は、”神の下で憩う為に、神と心1つになる祈りの戦いを重ねる”のです…ですから、”クリスチャンは、たえず1つの事を自問自答しなければなりません”…教会生活、信仰生活が、もし疲れるだけの場となっているなら、それは、”神様が間違っているのではなく、自分の祈りの姿勢が、神に向かう姿勢に根本的な間違いが生じているのでないか?”という問いです。

”私共の礼拝が、主イエスに、「もう、大丈夫。何の心配もいらないよ。(いと安かれ)」と言って頂いて、共に憩いが響き合う場となる為に、共に祈り合って行く事”を願います。