神の忍耐の愛から

ロ-マの信徒への手紙15章1〜6節

15:1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべき ではありません。
15:2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
15:3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしり が、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
15:4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたし たちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思 いを抱かせ、
15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方 をたたえさせてくださいますように。

ホセア書11章3b〜4節
「…しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。」
14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、 妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信 しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩ん でいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために 死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて 人を罪に誘う者には悪い物となります。
14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしない のが望ましい。
14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決 心にやましさを感じない人は幸いです。
14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。 確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
神の忍耐の愛から

  ロ-マの信徒への手紙15章1〜6節 2005年8月7日

 今朝からロ-マの信徒への手紙の15章に入ります。今朝は15章1〜6節から共に神の言に耳を傾けて参りたいと願っています。6節に「心を合わせ声をそろえて、私達の主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせて下さいますように」とあります…皆で”心をあわせて、神をたたえる事ができたら”、どんなに”聖霊の臨在に満たされる”と思います。

 ”父なる神様を心から賛美する事こそが、聖霊に満たされる秘訣だから”です…今朝の箇所から、”人の心に、神への信頼と賛美を生み出す…神の忍耐の愛”と、”神の忍耐の愛を受けた者達同士も、忍耐の愛で受け入れ、担いあいながら、共に主イエスを賛美する者になる”事を学んで参ります。

 5節には、「…神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」とあります…”クリスチャンは、イエス・キリストにならって(お手本として)…つまり、キリストと同じ思いで、父なる神を崇める者となる事が出来る”と言うのです。

 ”キリストの、この地上での思いと歩みは、人の苦難を全て舐め尽くすもの”でした…今月に入って、TVで戦後60年を記念する特別番組が連日組まれています。そうした番組を見ながら、主イエスの御生涯も、そのような苦しみを味わい続けたものだったと思わされておりました。しかし主イエスは、そうした中でも、神を崇める思いと歩みとを貫かれた”のでした。そして、聖書は、私共にも、「誰でも、救われて聖霊を受けている者なら、このキリストに倣う事が出来る」というのです。

 ここにある「思い」という言葉は、「心臓」という意味の言葉です…”主イエスは、私共と同じように、心臓がぎゅーっと締め付けられるような苦しみを通られた”のです…それゆえ,”私共は、主イエスの愛と痛む心に、自分の心を重ねる事が出来る”のです。

 人は、”主イエスを特別なお方、自分とは天地ほど差がある心の聖いお方、心の強靱なお方と思っていた方が気が楽”かも知れません。主イエスのように立派に生きる難しさを知っているからです…しかし、”聖書は、「あなたはキリストと同じ心を持っている、聖霊の助けによって、あなたもキリストのように生きられる」という”のです。

 先週の祈祷会でこんな話しがでました…10年前の荒井先生の時代の祈祷会で、「あなたのイエス様のイメージは何ですか?」と荒井先生が質問され、皆さんが、それぞれどう答えられたかというお証を伺いました…その時、聖子師が、「皆さんそれぞれが、イエス様に対して持たれているイメージが、そのまま皆さんの品性として結実しているのですね」と言われました。私も本当にそうだと思いました。

 そのように”キリストの心と私共の心が1つとなる道”が3節に記されているのです…それが「キリストも、御自分の満足はお求めになりませんでした」なのです。

 ここにある「キリストも」という言葉は、口語訳では、「キリストさえ」と訳されています…パウロは、「キリストは王の王であったのに、そのキリストさえ、自分を満足させる為に生きられなかった…まして、あなたは尚更、そうではないのか?」と言うのです。

 ”人の心の一番底にある思い”は、”自分を満足させる思い”ではないかと思います…確かに、これは本能ですから当然かも知れません。しかし、”聖霊が私共を、キリストと1つ思いの者へと変えて下さる時、私共の喜びと、私共の願いが、神に喜ばれる事が一番の喜び、一番の願いに変えられる”のです。

 その、”神に喜ばれる歩み”というのが1節です。「私達、強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」…”父なる神は、私共に、強くない人の弱さを担う歩みを歩んで欲しい”と願っているのです。

 ここにある「強い者」と言うのは、「出来る者」と言う意味があります…何が出来るのかと申しますと、”神を信頼する事が出来る”という事です。ですから、”神に信頼できない者”を、”弱い者”と言わず、”強くない者”というのです…”強くないのに、まだ自分の弱さに、本当に絶望していない者の事だからです…自分が弱い者だと認める事が出来たら、主イエスに自分を明け渡し委ねる事が出来る筈”だからです。”弱い者は、イエス様に拠り頼んで、すっと立てる(強くなれる)”のです。

 神に信頼出来る者は、信頼出来ない者に対し、「あなたの信仰は駄目だ」と裁きたくなります…しかし、使徒パウロは、1節で「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべき…」と言うのです。”信仰に立てない人が、その弱さから、苦しみや、問題を招いた時、「ほら、だから言ったじゃない」と叱るのでなく、その弱さを担ってあげなさい”と言うのです。

正直、耳の痛い言葉です。「神さま、そこ迄していたら、身も心も持ちません」と言いたくなります。しかし、この「担うべきであり」と言う言葉は、”「こうすべきだ」というとても強い言葉”なのです…「あなたには、そうする義務と責任がある」と言うのです。

 それでは、”隣人の苦しみや問題を担う力と愛は、何処から頂けば良いのでしょうか?”…それは、”神の自分に対する真実な忍耐の愛を見上げる事”なのです。

 ”私共はかつて神を知らない者でした。いえ神に敵対する者であったか知れません。それなのに、神は一方的で、無条件な愛で救って下さった”のです。そうして”救いの恵みに預かった後も、主イエスを悲しませる事の多い者だった”と思います…しかし”神は忍耐の愛をもって真実に導き続けて下さった”…”この神の真実を見上げる事”なのです…これはロ-マの信徒への手紙が言い続けている事でもあるのです。

 先日、誕生日を迎え、夕食の祈りの時、聖子師が「お父さんを、ここまで真実に導いて下さった神に感謝します。これからも、お導き下さい…」と祈ってくれました。その時、「確かにそうだ、神の愛は、真実な忍耐の愛ゆえ、こんな自分を、ここまでお導き下さったのだなあ」と思った時にジーンとしました。「神の真実な忍耐の愛」に信頼し感謝する心に、神はアガペーの愛を注いで下さって、隣人を担う者として下さる”のです。

 パウロは、クリスチャンを「わたしたち強い者」と言いました。初め、私はこの言葉にひっかかるものを感じました。

何故なら、”足を引きずるように、主イエスに従っている時もあるから”です。そう感じるのは私だけで無いと思うのです…しかしパウロは、そうした思いを見て取ったように、4節で「かつて書かれた事柄は、全て私達を教え導くためのものです。それで私達は、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける事ができるのです」と言ったのです。

 また続く5節で、”神を「忍耐と慰めの源である神」”とも言いました…「クリスチャンの生涯は、神の忍耐によって救われ、導かれ、自分が受け入れ続けて頂いている事を知る生涯、この神の真実から慰めと希望を受ける生涯である」と言うのです…ですから、キリスト者は、神の愛を伝えずにおれなくなるのです。

 旧約聖書、ホセア書11章3〜4節にこんな言葉があります。「エフライムの腕を支えて歩く事を教えたのは私だ。しかし、私が彼らを癒した事を彼らは知らなかった。私は…愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」…ここにも、”神への感謝を忘れた民に、神が「愛の絆」をかけられて、忍耐深く導き続けた事が語られている”のです。

 この”神は今も私達を、忍耐の愛で導き続けて下さっている”のです…”キリストが復活されたのは、私共を忍耐の愛で受け入れ、祈り執り成し続ける為でもあったのです…キリストから受ける慰めと、このキリストへの信頼から生まれる希望に預かる事が出来るのです。

 しかし、自分が受けるだけでなく、私共も、キリストの躰である教会(キリストと1つ心の兄弟姉妹)の交わりにおいて、忍耐の愛で受けとめ担いあう”のです…そこで、私共は、自分だけでなく、私共が、心を合わせ声をそろえて、父なる神をたたえる者となる”のです。