「神から頂く善意と知恵」
ロ-マの信徒への手紙15章14〜21節
15:14 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合 うことができると、このわたしは確信しています。
15:15 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きま した。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を 務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に 喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
15:17 そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思ってい ます。
15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリスト は異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、 エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。
15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わた しは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」 と書いてあるとおりです。
詩篇4篇4〜5節
4:4 主の慈しみに生きる人を主は見分けて/呼び求める声を聞いてくださると知れ。
4:5 おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り/そして沈黙に入れ。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神から頂く善意と知恵」
ロ-マの信徒への手紙15章14〜21節、2005年8月21日
この朝は、ロ-マの信徒への手紙15章14〜21節の神の言に共に耳を傾けて参ります。
ここで使徒パウロは、これまで書いてきた、このロ-マの信徒への手紙を読み直したようです。何故なら15節で手紙を振り返って、「記憶を新たにして貰おうと、この手紙では所どころかなり思い切って書きました」と言っているからです。
「思い切って」というのは、「相当の勇気をもって」という事です。トゥルナイゼンという神学者は、「説教とは、お節介な事を言う言葉である」と言いました。当たり障りのない言葉という言葉がありますが、説教は反対の”当たり障りのある言葉”なのです。
何故なら、”説教は人の心に神の言を送り込む業だから”です。”神の言は、心の深い所を探ぐり取り扱う言葉”です。確かに、”人は神の言に取り扱われるという体験をしませんと、何年教会に通っていても変わる事が出来ない”のです。
しかし、人を造り変える神の言でありますが、語る時には相当勇気が入るのです。「こんな事を言ったらあの人は気分を害するだろうか?」等と考えたら何も言えなくなるのです…「この教会の聴き手は、この説教を、神が1人〜に語って下さっている、神の言の説き明しとして聴いて下さる」と信頼できないと説教者は語れないのです。
この”聴き手を信頼出来る”という事はとても大切な事なのです…先月の献堂記念礼拝の後、H先生は、「土居教会の講壇はとても話しやすかった」と言ってくださいました。土居教会には説教者と聴衆の間の信頼関係があるからだと思います…その”信頼関係に聖霊が働いて下さり、神の言を聴衆の心に届けて下さる”のです。
もう1度14節をお読みします。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合う事ができると、この私は確信しています」…この”確信しています”という言葉は、ロマ書中、2度しか使われていない言葉なのです。
パウロは、”慎重に使っている、この「確信」という言葉”を、ここで、まだ見た事もないロ-マの教会に対して使ったのでした…「あなた方には、驚くような神から頂いた善意と知恵がある」と…。
これをお世辞ではないかという人もいます。先週のお話しにあったように、”ロ−マの教会の中に、信仰の強い者、強くない者という差別があったから”です。しかし、14節の「あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる」という文を良く読みますと、決してお世辞ではない事が分って来るのです。
ここに”戒める”という言葉があります…私達が、”人を戒めると、その後、気まずい関係になる”という事があります…”上手に戒める”という事は、人との拘わりの中で一番難しい事です。ですから、”罪に気づかない人、罪の中に留まろうとする人の心を開いて戒めるのは、余程の知恵と善意がなければ出来ない”のです。
パウロがここで言っている”驚くような善意と知恵”というのは、”神から頂いた善意と知恵”の事なのです…パウロは、”ロ−マの教会は、お互いに神から頂いた善意と知恵で戒め合う事が出来る教会”だと聴いていたのです。
だから、まだ見た事のない教会だけれども、”信仰の強い者、強くない者とを差別する教会内の罪”を指摘する、このパウロの手紙を読んだら、”お互いに「悪かった」と、悔い改めをしあう事を確信していた”のでした。
こうして学んで参りますと、”善意と知恵がある人”というのは、”信仰的に成熟した人”の事でもある事が分かって参ります。
先週のキャンプは、皆さんのお祈りに支えられまして、とても恵まれたキャンプとなりました。オンヌリ教会の韓国の伝道チームの、”素晴らしい賛美の力”と、聖書学院教会の渡部先生、菊間教会の杉野先生らの恵まれた説教のゆえでした。
オンヌリ教会から遣わされてきた伝道チームは、日本に留学中の、韓国人、台湾人、中国人、日本人のチームでした。モンゴル伝道から帰ったばかりで、体調を崩しながらも、全身で賛美し、献身をもって主とキャンプに仕える姿は、本当に輝いていました。
彼等は決してクリスチャン歴が長い訳ではありません。信仰生活の初めから、”主の恵みに対し、自分を献げて伝道するという応答の中で、クリスチャンは聖霊に預かるという事を徹底的に訓練されている”のです…”信仰者としての成熟を目指すという意識付けの訓練”です。
”主の恵みに対して、献身をもって伝道してお応えするのが聖霊に満たされ歩む道だから”です…確かに彼等は内側からの輝きに溢れていました。
そして、最後の日の証会は、献げているからこそ沸き上がってくる、涙と感謝の証しで一杯でした。日本人のキャンパーも、その聖霊の渦に巻き込まれ、下の娘も救われた証を涙を流しながらしていました。
伝道チームの彼らも青年ですから、沢山悩みも抱えていました。また多国籍チームゆえの衝突も…。”主イエスに仕えるあり方、キャンプに仕えるあり方で、陰で戒めあう姿”もありました。でも、話し合う中、彼等は涙を流しながら抱き合い祈りあっていたのです。
こうした訓練を受けた中国人の3人の女妹達は、聖霊に満たされて母国中国への伝道の使命が与えられ、もうすぐ殉教覚悟で中国に帰るのです。
キャンプ中、何度も「愛します。祝福します」と賛美しました。みんな手を握りあい、目を見つめ、同性同士は抱き合って賛美しました。始めは照れくさかったのですが、賛美する中で力を受け、また”主イエスの愛を肌で感じ”て、大人もホロッとしたのです。これが”賛美の力”なのです。
パウロも、「あなた方はせっかく神の子として、新しく生まれたのに信仰の子供のままで良いのか?…聖霊を受けて生きる成熟した信仰者になりなさい」と言っているのです。
続けてパウロは、「信仰的に大人になるにはどうしたら良いのか」を語っています。15〜16節「記憶を新たにしてもらおうと…かなり思い切って書きました。
それは、私が神から恵みを頂いて」…つまり、”パウロは、繰り返し〜今迄聴いてきた恵みを、新しく思い出して貰おうと思って、この手紙を書いた”のです…”神の恵みによって、キリストのものとされた恵みを、絶えず新鮮な気持ちで思い出す事こそが、信仰が成熟して行く命の源”だからです。
ここで詩篇4篇4〜5節を開きたいと思います。「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわる時も自らの心と語り、そして沈黙に入れ」…人が誰かに対して怒っている時、なかなか”神の善意と知恵を求めて祈る事は出来ない”のです。
しかし、ここには、「横たわる時も自らの心と語り、そして沈黙に入れ」とあります。横たわる時というのは寝る時です…寝る時、怒っている事を考え始めますと、怒りが大きくなってきて眠れなくなる事は、おそらく誰もが経験していると思います。
詩篇の作者は、「怒りで眠れない時、沈黙して頭を冷やしつつ、自分が神の慈しみによって救われた事を思い出しなさい」と言うのです。
”人が怒っている時は「自分が正しい」という思いで一杯”で、”相手の心をくみ取る事が出来なくなっている”のです…そこで、”静まって、この問題の直中に、主イエスがおられると信じて、私を慈しみ救って下さった主を見つめるなさい…主は、そのような人を見分けるように見つけて、祈りを聴いて下さるのです。
そして、その時、相手の気持ちを考え、相手の立場に立って、相手を諭す神の善意と知恵とが与えられる”と言うのです。
”韓国の伝道チームが、お互い、主に仕える事を諭し合い、涙の中で祈り合っていた姿”です。
”こうした姿こそ、罪人がイエス・キリストのものとされた証し”なのです。17節に「…私は、神の為に働く事をキリスト・イエスによって誇りに思っています」…「罪人である自分が、神の証し人と変えられている事に気づいたら、それはイエス・キリストによるのだから、心から喜んでキリストを誇りなさい。神に栄光を帰しなさい」とパウロは言うのです。
この朝、共に祈りたいと思います。「自分が怒りや思い煩いに支配される時、私を慈しみ救って下さったイエス様を見つめる思いを与えて下さい。相手の心を思う慈しみを与えて下さい」と…。
”そこで、聖霊なる神が、私共を、神の善意と知恵で生きるクリスチャン、また神の善意と知恵に溢れた教会と変えて下さる”のです。