「パウロの祈り」
ロ-マの信徒への手紙15章7〜13節
15:7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あ なたがたも互いに相手を受け入れなさい。
15:8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となら れたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、
15:9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたし は異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
15:10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、
15:11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言わ れています。
15:12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治める ために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」
15:13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがた を満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「パウロの祈り」
ロ-マの信徒への手紙15章7〜13節、2005.8/14
ロ-マの信徒への手紙の本文は、先週の箇所で終わりました。この”ロマ書は、福音の神髄をぎっしり詰めた聖書の背骨ともいうべき手紙”でした。使徒パウロは、聖霊の御声を聴きつつ、一言〜噛みしめるようにして口述し、その言葉は一言ずつ刻むように大事に書き記されたのでした…そうして、”この手紙を書き終えようとしていたこの時、そのパウロの言葉は祈りへとなっていった”のです。
その”パウロの祈り”が、13節の「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせて下さるように」です。
この”祈り”には、”パウロが、いつも神と交わり、いつも福音に生き伝道して来た、その生き様が表れている”のです。”一つの説”ですが、この”ロマ書が書かれたのは、使徒言行録の20章3節に書かれている頃…コリントに滞在した3ヶ月の間だった”と言われています。
”パウロが工ルサレムに向かって船出しようとした時、彼を殺そうとするユダヤ人達の陰謀が発覚し、急遽、ルートを変えて船出したのでした”…そういう”緊張の中で、この手紙が書かれた”のです…”そして、この後パウロはミレトという港で、エペソの教会の長老達に遺言を語った”のです。
”パウロは、感情的に喜んでいる時でなく、不安と緊張が極限に達した時に、この福音の恵みを噛みしめるように解き明かした”のでした…何がパウロにそんな力を与えたのか?と思いながら読み進めていた時、”パウロが神を「望みの神」と呼んでいる所”に目が留まりました。
こうした極限の中でもパウロは、父なる神を、「希望の源である神」と信頼していたのです。ここに”パウロの神との交わり”が伺えます。”日毎の神との交わりから生まれた、神への信頼が、不安と緊張を超えて、問題と自分との間に神を置き、神に委ねる事を得させた”のでした。
「希望の源である神」と言う言葉を聴いて思い浮かぶのが、”詩篇の42篇”です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように…」です…”鹿が、「あそこに行ったら水が飲める」と思って谷底にある川を目指して行ってみると、川が涸れていて、干上がった谷底で呻くように水を求めている鹿の姿が記されている所”です。
”2節の後半〜4節”にこう記されています。「神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐ事ができるのか。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。「お前の神はどこにいる」と…。
絶望の中で、神が遠くに感じる時、その傷口に塩を塗られるように、人から「お前の神は何処にいるのか?」と嘲笑されたのです…「神様どうして?」と思わずにおれない時です…この時、”詩篇の著者ダビデは、そんな呻きを漏らしていた”のでした。
しかし、”ダビデは、この呻きの後、はたと信仰に立ち返った”のでした…5節「何故うなだれるのか、私の魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。私はなお告白しよう。『御顔こそ、私の救い』と」…私共が、絶望の中うなだれてしまう時、”絶望から目を背けず、そこを大切に過ごして頂きたい”と願います…何故なら、そこは、”聖霊が語りかけて下さる所だから”です。
先週の祈祷会で、宇都宮兄がお証をして下さいました…「この度、目の不調を覚えて、最初に診察して頂いた眼科で、失明の宣告をされた時、一瞬、「神も仏もあるものか」という思いが沸いてきました。しかし、少ししてから、いや、神がいるではないか!…これからの事は全部神にお任せしよう」という思いに導かれたと言うお話でした。
”人が絶望の中うなだれる時”は、”神の視点”から見るならば、”聖霊が人の心に臨み、「神を待ち望め。私なお告白しよう。御顔こそ、私の救い」という信仰が与えられる時”なのです。
先週、説教の中で、”信仰の強い者、信仰の強くない者”について学びました。今朝読みました8〜9節には、”割礼”の事が記されています…それは,”教会の中で、割礼のある者ない者の間に対立”があったからです。
”人間”という字は、”人の間”と書きます。人は一人では生きられません…”人と交わり、人から支えられずに生きる事が出来ないから”です。しかし、”人間関係ほど人に苦しみを与えるものもないのも事実”です。この”人間関係のもつれ”という、人の心を重く〜する苦しみが、残念ながら、”教会の交わりの中でも起きてしまう事”をパウロは記すのです。
クリスチャンとノンクリスチャンとの間のトラブルは、「受け入れる愛、赦す愛を下さい」と祈りやすいのですが、クリスチャン同士の場合は違って来ます。お互いに、「あの人も神を信じているのに…」という”審く思いの中,祈れなくなる”のです。
それゆえパウロは、続く7節で,「だから、神の栄光の為に、キリストがあなた方を受け入れて下さったように、あなた方も互いに相手を受け入れなさい」と言ったのでした…”キリストの十字架の愛(忍耐の愛、痛みの愛)で、痛みを持ってお互いに受け入れあいなさい”と言ったのです。
パウロ自身も教会内に於いて、クリスチャンになる前に迫害した人々や、その家族との気まずさや、信仰の大先輩である”ペトロやヤコブと、割礼の問題で大論争した”のです。
パウロも、「どうして自分のいう事が分かって貰えないのか?」というジレンマの中、心の重さを引きずるような教会生活の経験から、”人間関係は一度もつれたらどうしようもない事を知った”のでした。
それゆえパウロは、”「父なる神よ、私の心を軽くして下さい」と祈り、そこで、”「望みの神」に望みを置く事、(この人、この問題と、自分との間に、信頼する神を置く事)こそ、心が軽くなる道だと学んだ”のでした。
更に、”パウロは私達にも願った”のです。7節「…神の栄光の為に、キリストがあなた方を受け入れて下さったように、あなた方も互いに相手を受け入れなさい」と…。「それこそが、神が神である事が明らかにされて、神の栄光が崇められる道なのだから」と言ったのです。こじれた人間同士が受け入れあう、愛しあう事が出来るとしたら奇跡です。この愛が教会に満ちる時、人々はそこに神を見るのです。ゆえに神の栄光が現される道なのです。
またパウロは、8〜9節で、「…キリストは神の真実を現す為に、割礼ある者達に仕える者となられたのです。それは、先祖達に対する約束を確証される為であり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになる為です」と言いました…先週、”神の真実”は、”神の忍耐の愛にある”事を学びました。
キリストが、割礼(身体に刻んだ神の民の印)がある者達に仕える者となられたのは、”先祖達(アブラハム)に、「あなたの子孫を神の民とする」と言われた神の約束のゆえであった”のです。
神は契約という約束を真実に守られ、旧約聖書時代、堕落し続けたイスラエルの民に対し、悲しみ悔い改めを促しながらも、僕のように仕え、民を赦し受け入れ続け、時満ちた時、御子イエスを十字架に架けたのでした。
それは、それしか、民をありのままで受け入れ、赦し、神の民とする道が無かったから”でした…この”歴史に現された神の真実ゆえ、パウロは神を信頼した”のです。
パウロは、”神の真実に信頼して、どんなに心が重い中で、すっと立つ事が出来た”のでした。13節には、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるように」とあります。
ここの”信仰によって得られる”と言うのは、”信じ続けている中で与えられる”という事です。”信仰は空っぽな受け皿”なのです…人は、”その受け皿を満たす為に祈る”のです…”私共が祈り求める時、絶望の中でも、聖霊が主の忍耐の愛を思い出させて、神への信頼に立ち返らせ、「この、こじれた人間関係や問題と自分との間に、信頼する神を置いて委ねよう」という神の希望を与えて下さる”のです
。
13節に「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせて下さるように」とありました。
”希望の源である神は、聖霊を私達に注ぎ、絶望の中にある時も、神の大きな御計画の中に置いて下さっている”事を教えて下さり、人は神の真実に信頼して、自分と問題、あるいはこじれた人間関係の間に、神を置いて、絶望を越えて、神の希望が与えられる”のです。
その時、”私共は、パウロの祈りが自分の上に成就している事に驚き感謝に至る”のです。お祈りします。