愛に生きる歩み

ロ-マの信徒への手紙14章13〜23節
14:13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、 妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
14:14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信 しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩ん でいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために 死んでくださったのです。
14:16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。
14:17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
14:18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
14:19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
14:20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて 人を罪に誘う者には悪い物となります。
14:21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしない のが望ましい。
14:22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決 心にやましさを感じない人は幸いです。
14:23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。 確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
愛に生きる歩み

    ロ-マの信徒への手紙14章13〜23節、2005年、7月31日

 今朝はロ-マの信徒への手紙14章13〜23節から共に神の言を聴いて参ります。今朝は、クリスチャンに与えられた、”新しい歩みの用い方”について学んで参ります…その”新しい歩み”というのは、”愛による自由な歩み”だと聖書は言うのです。

 15節に、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません」とあります。ですから,クリスチャンは、夜、床に入る前に、「今日一日、愛によって歩めたか」と顧みる一時が必要なのです。

 使徒パウロは、この”キリスト者の歩み”を…「御霊によって歩きなさい。光の子として歩みなさい」と言いました。”彼は、クリスチャンが愛に生きるというは、御霊によって愛の光の中を歩む事であり、喜びの歩みとして経験して”のでした。 

 ”喜びを感じながら歩む人生と対照的な人生は、涙を流しながら歩む人生”です。

 この夏は、甲子園の予選に熱くなりました。娘が川之江高校の吹奏楽部として、横内光里姉がチアガールとして応援に頑張っていたからです。残念ながら、川之江高校は、この春、甲子園の選抜大会に出場した西条高校に敗れベスト8に終わりました。敗戦後、応援団長は、「帰って1人になってから泣く」と言ったそうです。それを聞いた時、「お疲れ様、今日は一杯泣いて下さい」と思いました。

 これは爽やかな涙です。しかし、”人生は、喜びよりも、人知れぬ所で泣きながら重い足を引きずり歩む事の方が多い”と思うのです。

 しかし、”人がキリストを信じる時、その人の歩みは、御霊によって新しい自由で軽いものに変わる”のです…重荷や悩みが変えられる事があります。またはは変わらずに残っている場合もあります…しかし、”その歩みは確かに、新しい軽く自由なものに変わっている”のです。

 ”共に歩んでいて下さる主イエスに、御霊によって、一緒に重荷を担って頂いている歩みに変えられている事が分かるから”です…そして”クリスチャンは、この「新しい歩み」を、家族や、学校で、職場で、刻む様に歩んで行く”のです。

 私共の「新しい愛の歩み」は、大きな力の前に踏み潰されてしまう小さな歩みかも知れません。韓国に堤岩里教会というキリスト教会があります。日本人でこの教会の名を知っておられる方は少ないのですが、おそらく韓国人で知らない方はおられないと思います。

 ”日本がかつて、その村の人を偽って集めて、この教会に閉じこめて火をつけて皆殺しにしたから”です。戦後、日本の教会が償いの意味を込めて、ここに記念館を建てました。しかし、韓国の教会は、そんな仕打ちをした”日本の宣教の為に祈って下さっている”のです。

 昨年の夏、急遽、土居教会来られた韓国の伝道チームの若者達も、”土居教会の宣教の為、泣きながら祈って下さっている”と伺いました。”主の思いが彼らの涙になっている”のだと思います…ここに彼らが、キリストの愛を受けている姿を見る思いがします。

 ”キリスト者の愛の歩みは迫害や暴力で潰れてしまうような歩みではない”のです。これは私達にも言える事です…職場や学校、親戚や家庭で迫害を受け、”小さな愛の歩みが踏みつぶされる経験”をします…”「しかし、その歩みはイエス様に支えられながら、七転び八起き出来る歩みなのだから、小さな歩みでもコツコツと歩んで行こう」とパウロは言う”のです。

 そして、使徒パウロは、”キリスト者の愛の歩み”を、”食べ物”という、日常的な題材を持ち出して語り始めるのです…主イエスは、マルコ7章18節で「あなたがたも、そんなに鈍いのか?全て、外から人の中に入ってくる物で人を汚す物、口から入って来るもので人を汚し得ない事が分からないのか?」と言われました。パウロも、ローマ14章14節で、「食べ物に汚れている物など何もない」と言ったのです…”主イエスと1つ思いだった”のです。

  しかし、続く15節では、「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物の事で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟の為に死んでくださったのです」と言っているのです…これは、「相手を見ながら、自分の自由を行使しなさい」と言っているのです。

 ローマ書には繰り返し、「クリスチャンは自由である」と記されています…”キリストと共に歩く時、人は,その与えられた自由を健全に支配して謳歌出来ます”。しかし人には”弱さ”があり、”キリストから離れてしまう時、自由を自己コントロールが出来ず”に、嗜好品で身体を壊したり、”神様から離れてしまう事がある”のです。

 マタイ18章6節に「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とあります。

 ここにある「つまずかせる」という言葉は、”しばしば教会で「あの人につまずいた」と、クリスチャンの未熟さや欠点を非難する言葉として使われますが、それは正しくありません…神が十字架のゆえに、人の欠点や未熟さを受け入れておられるのに、人が人に「つまずいた」というべきではないから”です…「つまずける」という言葉は、”キリストから引き離そうと誘惑する大きな罪の事”なのです。

 ”クリスチャンが自由に生きながらも、弱さを持つ人を誘惑しない道は、律法を守る縛られる生活に戻る事ではありません”。15節によるとは、それは、”愛によって歩む事”だったというのです。

 また21節では「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うような事をしないのが望ましい」と言うのです。私共の、”聖め派の教会には、禁酒、禁煙の伝統”があります。”アメリカのピューリタン(清教徒)の伝道によって誕生したグループ”だからです。

しかし、日本でも、世界でも、”禁酒、禁煙”を掲げる教会はそれ程多くはないのです。”聖書が禁じていないから”です。しかし、”たばこやお酒が依存症を生みやすい”ので、”弱い兄弟を誘う事を慎むのは愛”とも言えるのです。

 スイスの有名な神学者であった、”エミール・ブルンナー博士が来日された期間、禁煙された事”は有名です。ブルンナー博士はパイプ好きでした。しかし、「日本のキリスト者が、禁煙を大切にしている」と聞いて、禁煙の練習をされて来日されたのです。それは、”日本のキリスト者を裁かず、軽んじず、愛している証し”でありました。

 ”洗礼を受けて、新しい歩みを始めた方が、覚えなければならない事は、このように、これからは自分1人で歩むのではなく、キリストの躰という共同体(教会)と一緒に歩む”事です。それは、今、食べ物の事から学びましたように、”隣人の弱さを理解しようと祈りながら、共に歩く事”なのです。

 16節には、「ですから、あなたがたにとって善い事が、そしりの種にならないようにしなさい」とあります。ここにある「善い事」というのは、「私達を救った福音」の事です…”救われて、罪ゆるされ、生けるキリストと出会った。そして交わる事が出来るようになった”…この”福音の喜び”を親しい人に語っても、”理解して貰えなかったばかりか、そしりを受けた経験をされた方は多い”と思います。

 パウロは「クリスチャンであるがゆえにそしりを招かないようにしよう。それは、あなた方の歩みにかかっている」と言うのです。

 ”クリスチャンの歩みは愛によって生きる歩み”です 新共同訳聖書は、15節の「愛に生きる歩み」の事を、「愛に従って」と訳しています。

これは、”キリストの愛という尺度に照らし合わせて、自分の歩みがずれている事に気づいたら、絶えず軌道修正する歩み”です。

「何を食べても良いが、もし信仰の弱い兄弟が心を痛めるなら、その兄弟を滅ぼしてしまう…キリストは、その弱い兄弟の為にも死んで下さった。その人の前で食べたり飲んだりするのは、その人を愛し生かそうとしておられる、キリストの愛からずれている」とパウロは言ったのでした。

 聖書学院時代、U教会に遣わされていた事がありました。その時、日曜学校の奉仕をされていた女性が、生徒を褒めるつもりで、「おしゃれね」と言ったのです。しかし、その生徒は、その言葉で教会を休むようになりました。先生が、”自分の言葉を悔いて泣いている”のを見た時、私は、「この人は伸びるな」と思いました。今、その方は牧師夫人として召されています…このように、”愛に生きる歩みは、自分だけが自由に歩むのでなく、自分が倒れてでも隣人が倒れないように歩む歩み”なのです。

 この朝、私共は、その”新しい愛の歩みを主イエスに求められている”事を覚えて、共に主の御前で「新しい愛の歩みを、この朝から、私共にも歩ませてください」と祈りたいと思います。