「時を知る者として」
ロ-マの信徒への手紙13章11〜14節
救いは近づいている
13:11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚め るべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいて いるからです。
13:12 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、 争いとねたみを捨て、
13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いて はなりません。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
「時を知る者として」

  ロ−マの信徒への手紙13章11〜14節.2005.7/3

  この朝、ロ−マの信徒への手紙13章11〜14節を、この礼拝に与えられた神の言として共に聴いて学んで参りたいと思います。ある人は、この箇所を、「クリスチャンの生き様を見事に圧縮して言い表している」と言いました。この所には、「時を知る者の歩み」という事が述べられています。その事が”クリスチャン生活の質を決定的に決定していくから”です。

 11〜13節に「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがた…眠りから覚めるべき時が既に来ています…救い(の時)は近づいているからです。日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか…」とあります…「時が近づいている事を知っている者は、日中を歩むように品位をもって歩む者となる」と言うのです。

 この”品位をもって歩む”という言葉は、”原語のギリシャ語”では、”良い形をもって”という意味の言葉が使われております。

 12章に、「この世と妥協してはならない」とありましたが、この「妥協する」という言葉も、”「形」という言葉”なのです…そうしますと「この世と同じ形になってはならない」とも訳せる事になります。その、”この世の形”を、13章13節では”酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ”と語っているのです。

 反対の”品位をもって歩む”を”良い形”と言っています…”日中歩む歩み方”ともいいます…確かに、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」という事々は説明するまでも無く、”闇の中で現れてくる物”ばかりです。

 私共が毎週、”主日の朝毎に、教会に集い礼拝して神の言の説き明しを聴いています”のは、”神を礼拝する事が、神に創られた被造物である人間の1番の義務であるから”です。

 と同時に、”人間の側から見る”ならば、”神の言葉という、<御言葉の鏡>に、自分の心を映しだし、神の御前の姿勢を仕切り直しをする”という面もあるのです。何か律法主義の様に感じますがそうではありません…”人は畏れるべき父なる神を、正しく畏れる心の姿勢を失いますと、途端に生き様が崩れて行く”からです。

 それを、”自分の気に入る御言葉だけを聴くクリスチャンとなる”と言う事も出来ます…そうなる時、”私共は、クリスチャン(教会)の本質である、キリストを頭とするキリストの躰である事をも見失ってしまう”のです。

 そこで、”品位をもって歩む”という、”日中歩む歩み方”について学んで参ります。”14節では、この事を「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言うのです。

 ”キリストを身にまとう”という事を、「ねたみ」という心の闇を例にとって考えてみます…この”ねたみ”という思いは、女性のものというイメージがありますが、いえいえ男性も女性も関係ありません。男性の方が仕事や地位や権力がらみなのでキツイかも知れません。そして、この”ねたみ”からは、随分立派な人でもなかなか自由になれないようです。

 昔から、「神学者(聖書学者)の争いぐらい恐ろしいものはない」と言われます。聖書の専門家ですから、ねたみが罪である事は、勿論知っていますので、無意識にそうした思いに蓋をして神学論争をします。しかし、”ねたみという感情が陰にこもっています”ので、議論が建設的になりにくく、一見理論を戦わせているようで、実の所、感情的に相手を否定している事が多く感じます。

 学生時代、聖書研究会というサークルに出席していた時に、一人の教授が言われた言葉を忘れる事が出来ません。「人は一生欲望と戦わなければならない。若い頃は性欲、次ぎに金銭欲が強くなり、そして名誉欲や権力欲が強くなってくる…自分も、”ねたみ”という思いから自由になるのが本当に難しい」という真実な言葉でした。

 使徒パウロは、14節で、そうした”人の心の闇の部分にから解放される道を語った”のでした…それが、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言う事なのです…”ただ、”キリストを着る”というのでなく、”<主>イエス・キリストを着なさい」”と言っているのです。

 私共が着物を買う時、自分が気に入った物を選んで買います。そして、古くなったり、破れたり、流行が過ぎて気に入らなくなったら捨てます。”着物の主人は自分だから”です。 しかし、「キリストを着る」という時には、「キリストを主人として着る」のです…”心の主人の座をキリストに明け渡す”という事が、”キリストを着る事だから”です。

 そして、そうなる時、”その人の上に、主イエスの品性が現れてきて、ねたみを始めとした、心の闇が消えていく喜びを知る事が出来る”のです…そして、これは、”クリスチャンにとって、日毎の、そして一生の歩み”なのです。
 
 更に使徒パウロは、「イエス・キリストを主として着ようとする者は、全て”時を知っている者”」と言ったのです…では、”時を知る”とはどういう事なのでしょうか?

 私の二人目の父は、軍人あがりの人で相当厳しく育てられました。門限もその1つでした。門限の時間を過ぎると、殴られた上、夕食抜きでした。しかし、まだ腕時計は高価な物でしたので、買って貰う事など出来ませんでしたから、夢中で遊んでいても、はっと我に返り、近くを通り過ぎる大人の人に時間を聞いたのを覚えています。

 そんな生活の中で覚えたのは、”過ぎてしまってからでは取り返しのつかない時がある”という事でした…”時の大切さ”です。

 パウロは此処で、「あなた方は、今、どんな時であるかを知っています」と言っています…どんな時かと申しますと、11節「…あなたがたが、眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私達が信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです」…それは、”近づいている救いの時”なのです。

 主イエスも、マタイ24:42で「目を醒ましていなさい」と言われました…”救いの時を寝ぼけてやり過ごしてはいけないから”です。

 ”クリスチャンは、既に救われた者達”です…あの”十字架という、既に過ぎた時が、自分の救いの原点であると体験した者達”です。そして、”クリスチャンは、その救いの後、光の中に立っている事を知って”います。と同時に、”未だ来ていない時、<主イエスの再臨>という時が、救いが完成し、更なる栄光に富む光の中に立つ日である事信じて、待ち望んでいる者達でもある”のです…。

 この”「日が近づいた」という言葉は、「救いの日が来た」という完了形で記されている”のも注目すべき事です…「やがて来る救いの日は、もう、あなたの所に来ている」という事だからです…”私共は、救いの光の中に、既に入れられ、救いの光の中に立っているからこそ、心の底にこびり付いている闇の部分に気づく事ができ、かつ、「やがて来る更に栄光に富んだ光の中(永遠の天国)に行きたい」と願う”のです。

 ”「その救いの完成の日の為に備えなさい」と語っている”のが12節です…「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け(キリストを主人として着る)ましょう」です。
 ”私共は、共に地上で礼拝しながら、光の武具であるキリストを着て、キリストを主人として心を明け渡しつつ、来るべき救いの完成する日を待ち望んで行く”のです。