主イエスの為に生きる

ロ-マの信徒への手紙14章6〜12節 

14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感 謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝して いるのです。
14:7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために 死ぬ人もいません。
14:8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。 従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
14:9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるた めです。
14:10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るの ですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。
14:11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわた しの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」
14:12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるの です。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
主イエスの為に生きる

    ロ-マの信徒への手紙14章6〜12節。2005年7月24日

 今朝、私共はロ-マの信徒への手紙14章6〜12節、特に7節「私達の中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」から共に神の言に耳を傾けて参ります。

 人は誰の為に、また何の為に生きるのかという価値観によって、生き様や死に様が決まって参ります。連日、猛暑が続きます。昨日、ふと「第二次大戦で、こんな暑い中、原子爆弾で被爆した人々が彷徨い歩いたんだな」と思いました。戦争中、日本人はお国のため、天皇陛下の為に生きて死に、また人を殺したのです。
 
 前後の節を読みますと、”クリスチャンは、主イエスの為に生き死ぬ者であると記されています、クリスチャンは、キリストの為に生きるゆえに、誰一人自分の為だけに生きる事がなく、死ぬ事がない”というのです。

 ”キリストの為に生きる世界”は、”この世的には損をする世界”です。しかし、”キリストと共に生きている事を味わう恵みの世界”です…”キリストによって、自分が自分でない者のような人生を生きる事が出来る世界でもある”のです。キリストの為に死ぬ事は、殉教する事もある人生だという事ですが、何よりも、天国が約束された人生なのです。

 このような言葉を聴きますと戸惑いを覚えるのは私だけでしょうか?…それでも、主の為に生きたい。主と共に生きたいと思うのがクリスチャンではないでしょうか?

 自分はそんなにエゴイストでもないけれど、「主イエスの為だけに生きているか?」と言われると自信ない方が少なくないと思います…しかし、聖書は、”クリスチャンであるならば、特別に献身している者でなくとも、皆、キリストの為に生き、キリストの為に死ぬ者とされている”というのです。

 誰かの為に生きる…先ず思いつくのは家族です。家族というのは、1つ絆で生きる共同体だからです。四国は家族の絆が特に強い地域だと感じています。しかし、家族でさえも、自分の事しか考えずにばらばらになっている事が少なくありません。

 先日、親を殺した青年の報道を聞きました。中学時代に非行を犯してから、親に相手にされなくなった事を恨んでの凶行だという事でした。犯行後も反省の色を見せなかったその青年が、親が自分の為にお金を貯めていてくれた事を知って、初めて親の愛に気づき反省したとの事でした。自分の為に生きていてくれる親の愛が見えなかったゆえの悲劇です。

 反対に、”1つの絆でしっかり結ばれた家族”があったとします。親が子供を愛し、子供も親の愛をしっかり受け止めてすくすく育ったとします。しかし、”子供はいつか親元から巣立って行く”のです。もし、親が子供の為だけに生きる事を人生の生き甲斐、目標としていたら、巣立って行った時に、”生き甲斐を失い、空しさと孤独を感じてしまう”のです。

 8節に「私達は、生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬのです」とあります…厳しく響く言葉かも知れませんが、”人は先ず第一に、主イエスの為に生きる”という目標をもっていませんと、子離れ出来ない親、親離れできない子供”のように、”不健全な依存を生む”か、”独りぼっち”という孤独に陥ってしまうのです。

 それゆえクリスチャンは、”生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬという、人生の本当の目的を証しする証人として、この世に遣わされている”のです。

 数年前に、教育課程審議会という所から、次のような意見が発表されました。「これからは高等学校の教育課程を変えなければならない。心の教育である道徳教育を強化して、折あるごとに、国旗を掲揚し、国家を歌う事を強く求めていく」というものでした。

 ”道徳教育という心の教育の強化”は、娘の高校の担任の先生が家庭訪問に来られた時にもおっしゃっていました。また”国旗国歌の教師への強制”は、報道を見ていると目に余るものを感じ、”クリスチャンとして痛みを覚え”ています。

 何故なら,戦時中、”国の為、天皇の為に生きる教育をされてきた日本人が、軍国主義から民主主義という新しい土俵に立って、新しい価値観を模索して歩み出し”、キリスト教が新しい価値観を提示し続けて来ました。人権や福祉、文化、科学でキリスト教の影響を受けていない分野はありません…にも拘わらず、”人々は新しい価値観、生き方を見つける事が出来ず、自己中心という生き方に染まってしまった”からです。

 そして”人々の価値観を、国家主義に逆戻りさせる歯車が動き出してしまった”のです…ここには,”クリスチャンにも責任もある”のです…”クリスチャンが自分の為だけでなく、「主の為に生き、主の為に死ぬ」という主の証人となりきれなかった”とも言えるからです。

 8節には、「私達は、生きるとすれば主の為に生き、死ぬとすれば主の為に死ぬのです」とあります。この、「主のために」の「ために」という言葉には、「役に立つ」という意味があるそうです。即ち、「クリスチャンの人生は、生きるにしても、死ぬにしてもキリストのお役に立つ」と言う事になるのです…”1日の日記の最後に、「今日も1日、主イエスのお役に立つ事が出来た」という文を付けられるか”と言う事です。

 ドイツにベテル(神の家)という町があります。創世記28章19節でヤコブに名付けられた町の名(ベテル)から名付けた、大きな福祉の町です。その町には、いつも沢山のボランティアがいるそうです。中には、足手まといになる未熟な奉仕者も少なくないのですが、施設長の牧師が、「しかし、ここで働いた人の手には、触れた障害者の感触、畳んだおむつの手触りが残ります。そうしたら、これからのち死ぬ迄、自分の事だけを考えて生きる事はないでしょう」と言われたそうです。

 私達の日々の生活に、こうした”他者の為に生きる”という愛が染み込んでいるでしょうか? こうした”愛は、お金の使い方にも表れます”…実際、ベテルの町で奉仕された方の多くが、自分の結婚式や葬儀の時に、ベテルの町に献金を捧げて下さるのだそうです。

 ”主の為に生きる”のは、必ずしも”職を投げうって献身する”事ばかりではありません。”献身は尊いもの”ですが、献身したから自動的に、毎日「主の為に生きる事が出来る」訳ではないからです…”日々、主イエスの御言葉を聴き、御言葉に生かされ、主に献身しないとならないから”です。

ですから、「主のお役に立つ」のは、仕事場で、また家事をしながら、あるいは病床でも、”主の為に生きる証しができる”のです。

 そこで9節に共に聴きたいと思います。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられる為です」とあります…”私達が主イエスのものとなって生きる為に、主はこの世に生まれて、死んで下さった”のです。8節後半にある、「生きるにしても、死ぬにしても、私達は主のものです」と私達を変えて下さる為でした。

 旧約聖書の出エジプトの34章に、モーセがシナイ山の頂で、神から十戒という律法を頂いて、山を降りて来た時の事”が記されています。この”十戒という律法は、民を神の民(もの)とする契約”でありました。

 しかし、”モーセが40日も山から降りて来ないので、民は神を礼拝するのを止めて、金の子牛の像を造って偶像礼拝をしたのです。偶像の都であるエジプトで育った民ゆえに目に見える神にすがりたいと思ったからでした。それを見たモーセは怒りのあまり、神が十戒を刻まれた石の板を叩き割って、山に戻って十戒を頂きなおした”という所です。

 その時、モーセはこう祈りました…出エジプト34:9(口語訳)「ああ主よ、私がもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主が私達の内にあって一緒に行ってください。そして私達の悪と罪とをゆるし、私達をあなたのものとしてください」とあります… ”心の頑な民をとりなしたモーセの切なる祈り”です。”モーセは、このあきれた民が神のものとなるという大胆な願いを、全能なる神の御手に信頼して祈った”のでした。

 ”パウロは、何千年の時を経たこの時に、モーセの祈りが成就したと捉えた”のです。それは、”堕落を繰り返す人間の歴史の中に、キリストが死者と生きる者の主となる為に、死んで甦って下さったから”でした。

 という事は、「もし自分が、自分の為にしか生きられない。自分の為にしか死ねない」という事は、「主イエスが死なれたのは、私にとって無駄だった。甦られたのは、私にとって意味が無かった」という事になる”のではないでしょうか?

 ですから、”クリスチャンは、キリストを主としてキリストの為に生き、キリストの為に死ぬ事に、「アーメン」という以外にない”のです。ではどうしたら、”主の為に生きる事が出来るのでしょうか?”

 6節に「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです」とあります…”食事をしている時も、「これは主の為に食べている」、”日常生活の全てを「主の為に…」とする時、”私共は主のものである”と実感でき、「今日も、キリストの為に生きる事が出来ました」と1日を終える事が出来る者となれる”のです。

 たとえ、その1日が病床で痛みに耐えているだけだったとしても、「今日も主の為に生きる事が出来ました」と言える”のです。”主の為に生きる事”はイコール、自分が主のものとされている恵みを知り続ける歩み”だからです。そして”人はそこで、本当に主の恵みに生きる事を知る事が出来る”のです。