受け入れ合う教会

ロ-マの信徒への手紙14章1〜6節
兄弟を裁いてはならない
14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。
14:2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。
14:3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。
14:4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
14:5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。
14:6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。
ecutive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  
受け入れ合う教会

     ロ−マの信徒への手紙14章1〜6節.2005年7月17日

  この朝からロ−マの信徒への手紙も14章に入って参ります。今朝、共に聴こうとしております神の言は、14章1〜6節です。今朝は1〜5節までを中心に学びます。1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい」という言葉があります。

 ”これは教会の交わり”の事です。”教会はキリストの躰という共同体”です…ですから”愛しあい、許し合い、受け入れ合うという交わりの中にこそ、そこにおられるキリストが現れる”のです。そして、2千年前の教会も、現在の教会も変わらずに、この”受け入れ合う”という事が課題なのです。

 教会に足を踏み入れられる人の多くは、暖かな交わりを期待しておられるように思います。私自身もそうでした。そして、”キリストの愛を中心とした教会の交わりの中で、信仰の目が開かれて来る”のです。しかし、そこで期待している暖かな交わりが得られませんと、「この教会は冷たい」と批判して立ち去っていく人々もいるのです。

 それは”教会に求めているものが違う的はずれの批判”です…”教会に求めるべきものは救い”です…”罪赦されて、キリストとの交わりが回復する、神との縦の関係が回復する事が救い”なのです。しかし、だからといって、”人間同士の交わりという横の関係はどうでもよいと言う事はありません”…”教会の交わりは十字架の形”と言われます。何故なら、”キリストとの交わりという縦の関係を回復した者は、同時に横の関係である人との関係の回復にも及んでいくから”です。

 ある著名な牧師が、友人の牧師にこんな事を言われたそうです…「ああ、嫌になってしまった。もう僕は風呂屋の番頭は嫌だ。この教会は暖かいの、冷たいのとかそんな事ばかり言っている。僕はそういう愚痴に振り回されるのは嫌だ」と…。牧師の誰もが味わった事のある思いです。この牧師先生も教会員の前では一度も漏らした事のない言葉だったと思います。

 ”教会がキリストの躰として、頭であるキリストにつながって、神の愛を受けていませんと、教会は途端に「暖かいの冷たいの」と愚痴り合う場となってしまう”のです。

 ”キリストを信じる”という事は、”キリストを受け入れる”という事です…聖書は、「信仰の弱い人をも受け入れなさい(信じなさい)」と言うのです…。殆どの人は、意見が違う人と共にいる事を好まないと思います…パウロも、クリスチャンとされた時、迫害してきたイスラエルの教会に、”神の愛ゆえに教会に受け入れらる経験をした”のです…ですから切なる言葉として、「意見の違う人を受け入れなさい」と語り得たのでした。

 3節に「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」とあります…当時のイスラエルの教会には、恵みによって律法から解放されたにも拘わらず、なおも、律法が禁じていた食べ物(豚肉など)を食べる事を躊躇していた人がいたのです。

 5〜6節には「特定の日を重んじる人」がいた事も記されています。日本での、”大安や仏滅にこだわる人、また名前の字画にこだわる人も同じ”でしょう。それは、”キリストが十字架で開いて下さった、信仰による無条件な救いという恵みを受け入れ切れていない姿”です。そういう考えに縛られているクリスチャンを、「信仰の弱い人」と言っているのです。

 当時の教会の人々も、信仰の弱い人々に対して、”「神と神の独り子キリストが、あなたに何をして下さったか分かっていないから、それに縛られているのだ」と言い、”教会の交わり”から追い出したくなったようです。

 では現在の教会ではどうでしょうか?…食べ物や、日にとらわれる人は少ないように思います。字画で子供に名前をつける人も少ないと思います。ただ、”礼拝を守る”という事には、信仰が弱人を軽蔑するという事が残っている”と思います。礼拝を守る事は誇る事でありません。”神を礼拝し神と交わる事は、食事や睡眠のように人間として当然の事だから”です…ですから、”礼拝を休まないから素晴らしいクリスチャンという事ではない”のです。

 礼拝出席は前提とした上で、大切なのは、”礼拝の質=キリストを主として礼拝しているか?という事”なのです。

 しかし、”十字架によって罪赦され、無条件で救われるという恵みを経験していませんと、礼拝を守っているか?という事で自分の信仰を測るようになる”のです。

 ”3節に「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」とあるように、礼拝を守る守れないで人々を裁いてしまう”のです。原語のギリシャ語では、もっと意味が強く、「相手の存在を認めない」という意味があります…”人を受け入れずに裁く事は、その人の存在を心の中から消してしまう事”だからです。

 Tヨハネ3章12〜15節に「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、私達のために、命を捨ててくださいました。その事によって、私達は愛を知りました…。」とあります。

 最近、頻繁に、友人殺し、親殺し、子殺し、夫婦殺しのニュースを耳にし胸が痛くなります。「どうしてそんな事をするのだろう」とも思います…そして、決まったように近所の人の「そんな人を殺す人には見えなかった」というインタビューが流されます。しかし”聖書は、殺人を遠くの出来事のように感じている私共に、「あなたも人を殺してはならない」と警告する”のです。

 私共の中にも「あの人などいない方が良い。あの人の顔を見たくない」と思う事があるからです。家族に対してさえも思う事があるかも知れません。しかし、「その人がいない方が良い」と、その人を心から抹消する心を、聖書は、、”心の中で殺人している”」というのです。勿論、相手に原因がある場合もあります。「それでも心の中で殺人してはならない」というのです。

 そこで、もう1ヶ所、聖書の御言葉に共に耳を傾けたいと思います。

  マタイ18章15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で忠告しなさい。言う事を聞き入れたら、兄弟を得た事になる」とあります…大切な御言葉です。ここにある「忠告しなさい」というのは「和解しなさい」という事です。「大勢の前で責めるのでなく、個人的に和解しなさい」というのです(愛の配慮)。

 しかも、しかもです。”出かけて行って和解するのは、加害者でなく、被害者の方”なのです…こんな事が出来るでしょうか?

 これが”聖められた者の歩み”なのです…”キリストを主(頭)として、キリストの躰として歩んでいる人だけが出来る歩み”なのです…”キリストの血潮で、神に受け入れて頂く経験をした人は、被害者にもかかわらず、和解の福音を携えていって、相手を受け入れる者と変えられる”のです。
 
 4節に「人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」とあります。

ここの”召し使い”という言葉は、普通「奴隷」と訳される言葉なのですが、ここでは「召し使い」と訳されます…つまり、「あなたが裁いているあの人は、キリストの家の人…つまり、”キリストのという主人を持つ人”なのです。それゆえ、”その人は再び立つようになる、キリストがその人を立たせる事が出来るから”」というのです。

 Uコリント13章5〜6節でパウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身の事が分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられる事が。あなたがたが失格者なら別ですが…。私達が失格者でない事を、あなたがたが知るようにと願っています」とあります。

 ”自分の内にキリストがいるという信仰があるかどうか、(自分がキリストの召し使いであるか)、いつも吟味しているならば、私共は、信仰の失格者に終わらない”と言うのです。

 これは、”罪や問題が満ちている事で有名なコリントの教会”へ書き送ったパウロの言葉です。パウロは、此処ではこう言いたかったのだろうと思います…「罪を犯しているあなたは、あなたらしくない事をしているのだ。心の内にキリストがおられる、そんな新しいあなたを知って欲しい。その時、あなたはあなたは必ず立ち上がる事が出来る」と言ったのです。

 ”教会(私達)と、キリストとの関係が回復する時、私達は、必ず人を受け入れる者へと、キリストに立ち上がらせて頂ける”からです。そして、”教会の交わりが、キリストの愛を指し示すものと変えられて行く”のです。