「復讐するは我にあり」
ロ−マの信徒への手紙の12章19−21節
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「復讐するは我にあり」
ロ-マの信徒への手紙12章19〜21節.2005年6/5
今朝は、ロ−マの信徒への手紙の12章19〜21節から、特に19節の「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のする事、私が報復する』と主は言われる」から神の言を聴いて参ります。
予習、復習は学校で「しなさい」と言われますが、ここで使徒パウロが、聖霊によって「してはいけない」と記した事は、”仕返しの復讐”の事です…パウロは、”「自分の正しさを確信する余りに相手に復讐する事をしないように」という神の御心を記した”のでした。
誰しも経験があると思いますが、”怒りを貫いている時には、自分が正しい、相手が悪いと思い続けています”…しかし、父なる神は、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言われるのです。
もう一箇所聖書を開きます。マタイ18章21節の,「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか?」と言った弟子ペトロの質問に対して、主イエスは22節で「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と答えられたのです。
日本には、「三度目の正直」という言葉があります。人の我慢の限界も三度迄という事なのでしょう…しかし”主イエスは「7×70=490回許しなさい」と言われた”のです。これは、回数の事を言っているのではなくて、「何処までも許し抜きなさい」という事なのです。
このロマ書の12章は、”キリストの躰である教会を地上に建て上げる土台”について記している箇所です…その”教会形成の土台”こそ、”神の愛”であり、その最後を締めるのが、”復讐を捨てなさい”という困難な勧めなのです。
この「許す」という事は、これは”神の愛に生きる事の中でも最も困難なもの”です。ですから、日本では、仇討ちは美徳として扱われて参りました。
アニメや時代劇でも、力ある正義の味方が悪人を懲らしめるものに人気があります。正義が悪をやっつけると爽快ですし、また、そのような教育ばかりを受けてきたのが私達なのかも知れません。
ですから、神の言として、「あなたは復讐を捨てなさい」というのを聴きますと、どうしたら良いか分からなくなってしまうのです。また、そうできない自分をも発見します。
ここで共に思い起こしたい事があります…それは、この”ロマ書を書いたパウロ自身が、不当な逮捕や拷問という迫害を受けた1人であった”という事です。パウロ自身、クリスチャンになったがゆえに「許せない」という人の感情を、”骨の髄まで経験した人だった”と言う事です。
そうした”パウロが、聖霊によって「あなたは復讐を捨てなさい」という神の言を受け、復讐を捨てる生涯を送った”のです…ある人が言いました「非行少年少女の非行の根幹にある動機は、”自分を軽んじ、虐げてきた親や社会への自己主張”だ」と…。
「しかし彼等には、自己主張する実力が無いので、人々の関心を得る最も短絡的な非行という手段によって自己主張している」というものです。とすれば、”非行少年少女が更正する為の道は復讐の心を捨てる事”ではないでしょうか?
だからこそ、”クリスチャンには復讐を捨てる”という”神の愛を証する使命がある”のです。
また、”その生き様こそが、世に神の愛を証し、また人の心を癒す”のです。
この”神の愛に生きる使命”は重い〜掟です。この事を語る事がどんな重い事なのかを少しは分かるつもりです。そして自分には語る資格の無い事を思います…しかし、”聖書は、キリストの躰である教会を形成する土台である、神の愛に生きるという事の最後の課題として、「…あなたは復讐を捨てなさい」とキッパリ言い切る”のです。ですから、私自身、畏れをもって神の言に聴きつつ語っています。
19節を見ると使徒パウロは、この「復讐を捨てなさい」と語るにあたって、「愛する人たち」
と呼びかけているのです。パウロ自身、先に述べましたように、”迫害を受けている直中で、聖霊から「私はあなたを愛している。私に任せて、あなたは復讐を捨てなさい」と聴いた1人だった”のです。
昨年、主イエスの受難を描いたパッションという映画で、”鞭打たれ、またドロローサの道を倒れても〜骨が見える腕で十字架を背負って起きあがり、十字架に向かって歩まれて、十字架に架けられた主イエスの姿が描かれておりました…その主イエスの眼差しに、復讐の念が無かった事に心打たれた”事を思い出します。
父なる神はパウロに向かって、「復讐は私のする事、私が報復する」と言われたのです。”愛である神が復讐する”と言われた事に違和感を感じるのは私だけでないと思います…しかし旧約聖書を読みますと、”神は愛であると同時に聖なる神”であり、その”聖さゆえに徹底的に罪を怒り汚れを退けられる御方”だと分かります。”今、私共が、ありのままで神に受け入れられ愛されているのは、ただ十字架の贖いのゆえ”なのです。
その”父なる神が、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言われる”のです…この「神の怒りに任せなさい」という言葉は、原文のギリシャ語では、「神に場所を空けなさい」という言葉です…つまり、”自分の怒りで塞いでいる心の一部を神の為に明け渡す”という事なのです。
もう1箇所聖書を開きます。エフェソ4:27に「悪魔にすきを与えてはなりません」とあります…この”「隙を与える」とロマ書の12章19節の「神の怒りに任せる(場所を空ける)」の「任せる」は、同じ言葉”なのです。ですから、「神の怒りに任せる(怒りで一杯となっている心の一部を神に明け渡す事は、悪魔に隙を与えない」という事なのです。
怒りも、神が与えて下さった大切な感情の1つです…しかし、”最も悪魔に隙を与えてしまう感情”という事を忘れてはなりません。何故なら、”怒っている時は、自分が一番正しい”と思っているからです。そして”クリスチャンでさえ、怒りの中で、しばしば心から神を追い出してしまう”のです。
”主イエスが、この世で戦われたのも、自分を正しいとする人達に対して”でありました。それは”律法学者であり、パリサイ人達”だったのです。”彼等は、律法に背く人々に対して絶えず怒っていた人々”でした。挙げ句の果てに、”罪人を憐れみ受け入れようとして、一緒に食事をした主イエスに対して怒りを燃やして主を十字架に架けた”のでした。
”人の中にある正義の怒りには、そういう面がある”事を忘れてはなりません。ですから、”心が怒りで溢れた時、心の一部を神に明け渡す必要を思い出す事が大切”なのです。
もし、神に心を明け渡したなら、人の歩みは、ロマ書12章20〜21節のようになるのです…「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む事になる。悪に負ける事なく、善をもって悪に勝ちなさい」。
ここに、「飢えている敵に食べさせよ」とありますが、これは「食べさせ続けなさい」という事なのです…”我慢や恩を売る気持ちでは決して出来ない事”です。しかし、そうすれば、”相手の頭の上に燃える炭を頭に積む=相手に大きな良心の呵責を与え、神の前の真実な悔い改めに導く”と言うのです。
神という御方を、イザヤ62章6節はこう述べました。「エルサレムよ、あなたの城壁の上に私は見張りを置く。昼も夜も…」…”天の父は、昼も夜も私共を見張っていてくださる御方”なのです。
”今の自分の全てを神は御存知である…父なる神が、私の為に、神の御心によって、神の時に働いて下さると信じて怒りに満ちた心一部を明け渡して、任せられるかどうか”が今朝問われているのです。今朝の御言葉はクリスチャンの理想を述べているのではありません…”私自身、長い祈りの答えとして父なる神から、この御言葉を聴いた1人”だからです。
今から私共が預かる”聖餐は主が招いて下さる主の食卓”なのです…”当時の食卓は、主人が招いた客に対して命をかけて守り抜くと約束する厳粛な契約の場”でした。
”主イエスも罪人である私共を「主の食卓」に招き、十字架で流された血潮の徴であるブドウ酒を飲ませ、裂かれた肉の徴であったパンを食べさせて下さる”のです。その”主の食卓ゆえに、私共はありのまま受け入れられ、赦され、永遠の命を与えて頂く”のです。
ここまで”愛し抜いてくださる、主に信頼したいと思います…この朝、怒りの時こそ、心の一部を明け渡して、主に委ねる者として下さい”という願いを持ち、共に祈りましょう。