「愛の負債」
ロ−マの信徒への手紙13章8〜10節
◆隣人愛
13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する 者は、律法を全うしているのです。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を 自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「愛の負債」
ロ−マの信徒への手紙13章8〜10節.2005年 6/26
今朝の聖書の箇所は、神にモーセが与えられた十戒とそこから派生した”612”にのぼると言われる”律法”を”主イエスが一言で言われた”所です。その”愛の律法”とも言われている、それがローマ13章9節の「隣人を自分のように愛しなさい」なのです。
ローマ7章7節に「律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」とありましたが、まさに此処で「愛しなさい」と言われて、初めて、”人は自分の内に愛が無い事に気づく”のかも知れません。
今お読みしました8節に、「互いに愛しあう事の他には、誰に対しても借りがあってはなりません」とありました…この”借り”と言うのは、”負債”、つまり、”借金”の事です。
”借金”というのは返済が終わるまで何となく落ち着きません…”返済する義務に追われる気持ちがするから”です。面白い事に、この”8節にある「返済」という言葉は、7節にありました、「国家に対して義務を果たしなさい」の「義務を果たす」と同じ言葉が使われている”のです。
負債は返済の義務が伴うからです。
使徒パウロは、ここで聖霊に導かれて、「あなたがたも、愛の負債に対しては、返済が済む迄、いつも心にかけて義務を果たしなさい」と言われたのでした。
人は皆、誰かに愛されていないと生きていけません。ですから、”愛の借りは生涯増え続ける”のです…それゆえ、”愛の負債を返し終える事は出来ませんので、愛の負債に対する負い目は、生涯心に、痛み、負い目としてある筈のもの”なのです。
主イエスも、十字架に架かられる前の晩、”最後の晩餐”の食事の席で、”遺言”を残されました…「私の戒めはこれである。私があなた方を愛したように、あなた方も、お互いに愛しあいなさい。人が、その友の為に自分の命を捨てる事、これよりも大きな愛はない」と…。
ここにある「これより大きな愛はない」という言葉は、「これしか愛はない」とも訳す事の出来る言葉です。「愛する」と言葉でいうのは簡単ですが、それは、主イエスが十字架で命を捨てて下さった事に見る事が出来るような、”命がけの行為”なのです。
クリスチャンであれば、誰もが、1度や2度は、「アガペーの愛(神の愛)に生きよう」と思った事があるに違いありません。そして、そこで、その難しさを痛感されたのではないかと思います。使徒パウロは、その事を、ローマ7章23節で言ったのでした。
「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」と…。ここには、愛したいけど愛に生きられずに葛藤したパウロの姿がある”のです。
では、どうしたら、”友や隣人を命がけで愛する事が出来る”のでしょうか?…今朝、お読み
したローマ13章9節に、「隣人を自分のように愛しなさい」とあります。”隣人”と聴きますと、「夫婦や、友人」を思い浮かべられるかも知れません。しかし、聖書が此処で言っている、”隣人”という言葉は、”他人”と同じ言葉なのです。
しばしば「夫婦は他人の始まり」という言葉を耳にします…誰もが結婚する時には、「この人は、自分の心を理解してくれる」と信じています。しかし、やがて、それが”間違っていた事に気づく”のです。つまり、”相手と自分は、物の感じ方、考え方が違う人=他人であり、何時も一体感を感じている事が出来ない”という事を…。その頃から、”倦怠期”と言われる時期が始まるのかも知れません。
しかし、聖書の始めに人類最初の夫婦である”アダムとイブの物語”があります。聖書は、この物語を通して大切な事を語っているのです…”神がアダムを眠らせて、あばら骨の1本を取り出して、それからイブを創られたという物語”です。
これは、”アダムのあばら骨の切口とイヴのあばら骨の切口とは、ピタッと1つ”になる…”「神が二人を夫婦として下さった」という信仰によって、夫婦は他人だけれど1つになって行く事が出来る”という事なのです。
この”真理は、人が十字架に現されているアガペーの愛(神の愛)を頂く時、その人に見返りを期待しない愛、自分を与え尽くす神の愛によって、他人を受け入れ1つになれる”という事を物語っているのです。
主イエスも、「あなたが、もし、隣人を愛する事が出来ているならば、その時、あなたは律法を全うしている」と言われました…それまで”律法”というのは、「〜してはならない」という、”消極的、否定的なもの”でした。しかし、”神の愛に生きる”という事は、”積極的、自由で、肯定的なもの”なのです。
”愛に生きる時、自由の中で、愛する者には、善い事をしてあげたくなり、悪い事をしようとは思わなくなります”。これは”強いられてではない、自由で積極的で自然な自発的思い”なのです。
旧約聖書に登場する預言者アモスは、「神の言が、心の中で飢饉になる時、愛も飢饉になる」と言いました。”時代が新約聖書に移り”ますと、”主イエスの弟子のヨハネは、ヨハネによる福音書の1章で「イエス・キリストこそ、その神の言である」と、主イエスを紹介した”のです。
”人が心にイエス・キリストをお迎えするのは、神の愛の言をお迎えする事であり、その神の愛の言であるキリストが、心に充ち満ちて来る時、愛の飢饉から解放されて行く”のです。
10節に、「愛は隣人に悪を行いません」とあります…”「愛」という言葉を「キリストに置き換え」て見て下さい…「キリストを心に迎えた人は、隣り人に悪を行いません」となります。”旧約聖書のイザヤ書の42章1〜3節”には、”神の言であり、神の愛であるキリストの事が預言されている”のです。
イザヤ書の42章1〜3節「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折る事なく、暗くなってゆく灯心を消す事なく、裁きを導き出して、確かなものとする」
ここに、”傷ついた葦を折る事なく”とあります。この”葦”は、”よし”とも呼ばれる稲科の植物です。エジプトのパピルスも、この葦の事です。”葦は折れやすい”ので、”弱い者の代名詞”でもありました…やがて、この世に来られる”キリストを、最も弱い者をも傷つけられない御方、怒鳴る事の無い、神の僕(神の言、神の愛)として預言している”所なのです。
人は皆、愛の無い社会で傷ついています。そして、私共もまた、愛の無さのゆえに、隣人を愛する所か傷つけている側なのかも知れません…しかし、”キリストは、傷ついた私共を折ってしまう事なく、また、傷つけた私共を大声で叱る事なく、心の中で、希望の光である灯心を灯し続けて下さる”御方なのです。
私共は、”新しい神の民、神の子としての身分を与えられたクリスチャン”です…しかし、日々、許され続けている、聖められ続けている罪人に過ぎません。
”何時も〜キリストを心に迎え入れ続け、キリストに心の主人の座を明け渡し続ける時、そこで、神の愛に生きる唯一の道が開かれて、愛の負債を返す人生を始める事が出来る”のです。