国家とクリスチャン

ロ−マの信徒への手紙13章1〜7節
13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
13:2 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
13:3 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
13:4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。
13:5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。
13:6 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。
13:7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

Tテモテ2章1〜2節
2:1 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  国家とクリスチャン

            ロ−マの信徒への手紙13章1〜7節.2005年6/19

 ロ−マの信徒への手紙の12章は、クリスチャンの生活(律法という掟ではなく、神の恵みに押し出されて、神の愛に生きるとはどういう事か)について記してありました。そして13章になりますと、”クリスチャンと国家との関係”について語られて参ります。この”国家”を、”社会や会社、また学校等に置き換え”て聴いて頂ければ良いと思います。

 ”クリスチャンになる”という事は、”神の子として新しく生まれ変わる”事を意味しています…しかし、神の民として新しく生まれ変わったからと言って、途端に仙人のように霞みを食べて生きていくわけではありません。使徒パウロは、”神の民となっても、変わらずに、この国の国民として、神の愛に生きなさい”と言ったのでした。

 ”国家とクリスチャン”というテーマは、一見、聖書には似つかわしくなく感じます…しかし、この時パウロは、「神の民とされたクリスチャンは、国家に対しても責任がある」と言う必要に迫られていたのでした。

 当時、今から2千年前、”国家に不満を抱える一部のクリスチャンが、武力をもって抵抗しよう”としており、また、もう一方では、”信仰に熱狂的になっていた人々は、「自分達は、もう神の民とされたのだから、国家や社会生活などどうでもよい」と、現実から遊離して生きようとしていた”からでした。そこで

 パウロは、13章の1節で、「権威というものは、全て神によって立てられている」と言ったのです。続く2節では、その「権威に従いなさい」と言ったのです。更に4節では、「国家は、あなたに益を与える神の僕である」と言い、7節で「もし国家が税を定めるならば、それに対して従うべきである」とも言ったのでした。

 イエス様も税金について、マルコによる福音書12章17節で、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に返しなさい」と言われました。これは”ファリサイ人”が、”占領国のローマに対する、反対分子のヘロデ党という国粋主義者達”と結託して、主イエスを罠に掛けるべく、「先生、今、あの神殿から使いが来て、税金を納めなさいと言うのですが、私達は税金を納めるべきでしょうか?神の民は、この世の民ではないのですから、税金を納めなくても良いのではないですか?」と問うたのです。

 これは「税金を納めなさい」と言えば、”イエス様は、何時も、「あなた方を神の民とする」と言いながら、この世の国の民である事を認めている”と言われますし、「納めなくても良い」と言えば、”ローマ帝国に対する反逆分子として訴えられる”という、”主イエスを陥れる巧妙な罠だった”のです。

 それに対する、イエス様の答えは、「カイザルの物はカイザルに、神の物は神に返しなさい」と言うものでした。この「納めよ」ではなく、「返しなさい」という主イエスの答えは、”絶体絶命の罠をくぐり抜ける、トンチの効いた鮮やかな答え”でありました。

 と同時に、この言葉は、”「国家と国家の権威は神に存在が許されている」と認められた主イエスの言葉でもある”のです。ですから、「クリスチャンは神の民でありますが、国家に対しても責任と義務を果たさなければならない」のです。ですから、”神の民が税を納める”というのは、決して”妥協して、神の民である事を捨てて、この世の民となる事ではない”のです。

 しかし、ここで注意すべき事があります…それは、パウロが4節で言った…「国家は、あなたに益を与える神の僕である」という言葉です。これは大切な言葉です…主イエスが国家を認め、パウロは「国家は国民に益を与えようとする神の僕」と言ったからです。

 しかし、”主イエス”は、”ローマ帝国に、イスラエルの統治者として権威を与えられたポンテオピラトに、十字架の刑を言い渡された”のです。

”パウロ自身”も、聖書には書いておりませんけれど、確かであろう伝承によりますと、”ローマで、逆さ十字架に架けられて殉教した”と言われています。

やがて”初代のクリスチャン達”も、ローマ帝国から迫害を受け、獣の餌食とされたりして殺されました…”神の僕である事を忘れサタンの手先となった国家に命を奪われた”のでした。

 主イエスはピラトに対して、ヨハネ19章10〜11節でこう言いました。「ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にある事を知らないのか」。 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もない筈だ」と言ったのです。

 これは、「ピラトよ、あなたは、神に立てられている事を忘れ、サタンの手先となってしまっている」と言う批判だったのです。 この様に、”国家は、神の僕として立てられている事を忘れて、サタンの手先となる事がある”のです…その時、”クリスチャンには、イエス様のように警鍾をならす使命が託されている”のです。

 では、”クリスチャンは、どのように国家や社会、会社や学校に警鐘を鳴らせばよいのでしょうか?…私共は、クリスチャンである良心を捨てて武力などで抗議すべきではありません。凛として信仰告白を譲らない証しをもって抗議する”のです…”主イエスも、死に渡された時、ただ黙して受けられたのです。
 ”沈黙という姿で、「あなたは自分の権威が神に立てられている事を忘れている…神に立ち帰らないと、あなたは永遠に取り返しのつかない過ちを犯してしまう」と語っていた”のでした…”「神を信じる」という事は、そこ迄、深く信じ抜く”事なのです。

 ”日本ホーリネス教団は、第二次世界大戦”で、”殉教者を出した教団”として知られています。私共の先輩牧師は、「天皇を神と告白しなさい」と強要された時、「否、イエス・キリストだけが唯一人の神であり、自分の主である」と告白して投獄され、”何人かが殉教した”のです…”凛として信仰告白を譲らないという証しをもって抗議”をしたのです。

 しかし、数年前、日本ホーリネス教団は戦争責任を告白し、アジアの諸国に謝罪をしました。”牧師達は個人的には、信仰告白に生き殉教しましたが、教団、教会としては、アジアに侵略をする国家に迎合していたと反省し悔い改めた”のです。

 そうした経緯から、日本ホーリネス教団は、”政治的動向には敏感な教団に成熟”してように思えます…数年前の”湾岸戦争時や、先のイラク戦争時には、ブッシュ大統領や、小泉総理に、教団は抗議文を提出”しました。また”大嘗祭や国旗国歌法案でも抗議文を出した”のです。

 今年は”西暦2005年”です。これは”ADラテン語の「アンノ・ドミニ」…キリストが、この世を支配されて2005年目”という意味です。ここには”ロマ書の信仰告白が込められている”のです…”世界中のどの国家も、キリストによる恵みの支配下にあるという信仰告白”です。

 またパウロは、Tテモテ2章1〜2節で、「上に立つ者の為に祈れ」と言いました。”国家において、全ての権力を持つ者が、神に立てられた者として、謙って人々に奉仕していき、サタンの手先にならないように祈る使命がある”と言ったのです。

 ギリシャ正教会の礼拝に出席した事がありました…驚いた事に、礼拝のプログラム全体が単調な歌なのでした。もう1つ驚いたのは、”国家やギリシャ正教会の権威者の為に、上の位から全ての人々の為に祈っていた事”でした。その時、聖書にある「上に立つ者の為に祈れ」という御言葉を思い出していました。それが礼拝の本来の姿かも知れません。

 そして、”上に立つ者の為に祈る者は、祈りつつ清き1票を投じる”のです…大西姉が、”ちかい”に入所されていた時に、「選挙に連れて行って下さい」とお願いされて、礼拝後に一緒に投票に行った事がありました。施設の方も、選挙管理人の方も、御高齢の方の投票に驚いておりました。私はその姿勢に、”祈る者の姿を見た”思いがしました。

 旧約聖書には、イスラエルが偶像の神バアル信仰に引きずり込まれそうなった時、”預言者エリヤが、1人で祈りの戦いに立ち上がった”事を記してあります。しかし、”神は背後でバアルに膝をかがめない七千人を、祈りの援護の為に選んで立てられていた”のでした。そして”祈りの戦いに勝った神の民は、生ける神が王である事を証明した”のでした。

 ”今日でも父なる神は、私共に、この世界、日本、社会、町、会社、学校の為に、また、教団委員長、教団委員、ブロック長、教区長、各教会の牧師の為に祈る事を期待しておられる”のです。

今日、中近東では自爆テロのニュースを聴かない日はありません。”アジアも今、緊張状態”にあります。”日本も、小泉総理が靖国神社参拝の問題でアジアと摩擦を生んで”おります。

 ”上に立てられている者が、神に立てられている権威を厳粛に受けとめ、使命を全う出来る様に祈りつつ、そして私共は、自らに対しても、「信仰告白に堅く立って証しに生きる力を下さい」と祈り続けて行く大切さ”を思います。

 ”やがての日に主イエスにお会いする為に、クリスチャンは、神の民として、そしてキリストの躰として、キリストを主とする証しの戦いにに生て行く”からです。