待つ祈り
詩篇38篇2〜23節
38:1 【賛歌。ダビデの詩。記念。】
38:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。
38:3 あなたの矢はわたしを射抜き/御手はわたしを押さえつけています。
38:4 わたしの肉にはまともなところもありません/あなたが激しく憤られたからです。骨にも安らぎがありません/わたしが過ちを犯したからです。
38:5 わたしの罪悪は頭を越えるほどになり/耐え難い重荷となっています。
38:6 負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます/わたしが愚かな行いをしたからです。
38:7 わたしは身を屈め、深くうなだれ/一日中、嘆きつつ歩きます。
38:8 腰はただれに覆われています。わたしの肉にはまともなところもありません。
38:9 もう立てないほど打ち砕かれ/心は呻き、うなり声をあげるだけです。
38:10 わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり/嘆きもあなたには隠されていません。
38:11 心は動転し、力はわたしを見捨て/目の光もまた、去りました。
38:12 疫病にかかった私を/愛する者も友も避けて立ち/私に近い者も、遠く離れて立ちます。
38:13 わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよう、と決めて/一日中それを口にしています。
38:14 私の耳は聞こえないかのように聞こうとしません。口は話せないかのように開こうとしません。
38:15 わたしは聞くことのできない者/口に抗議する力もない者となりました。
38:16 主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。
38:17 わたしは願いました/「わたしの足がよろめくことのないように/彼らがそれを喜んで/尊大にふるまうことがないように」と。
38:18 わたしは今や、倒れそうになっています。苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり
38:19 わたしは自分の罪悪を言い表そうとして/犯した過ちのゆえに苦悩しています。
38:20 わたしの敵は強大になり/わたしを憎む者らは偽りを重ね
38:21 善意に悪意をもってこたえます。わたしは彼らの幸いを願うのに/彼らは敵対するのです。
38:22 主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  待つ祈り

                    詩篇38篇2〜23節.2005.6/12
 この朝は、ロ−マの信徒への手紙を一休みして、「神を待ちつつ祈る」という事を詩篇38篇の2〜23節から聴いて参ります。
 毎年ある保険会社が、サラリ−マン川柳をというものを募集しています。昨年の、サラリ−マン川柳の1位は、「オレオレに亭主と知りつつ電話切る」というものだったそうです。オレオレ詐欺にかけた川柳です。私も家内に電話をかける時、「オレオレ」と言ってしまう癖がありますので、もし家内に「オレオレ」と言った瞬間、電話を切られたらショックだろうな?と思いました。詐欺は勿論、犯罪ですが、信頼し合う人間関係を利用する、このオレオレ詐欺は本当に罪深いなと思わせられました。

 今朝の説教のテーマは、”待つ祈り”です。”私とあなた”という、信頼し合う者だけが出来る事こそ、この”信じて待つ”という事ではないでしょうか?

 この詩篇の”38篇”は、詩篇の中の3番目の悔改めの祈りです。詩篇38篇の題に「記念のため」とあるのは、苦しみの中にあってなお神に覚えられていたダビデが思いを留めておくために歌い残す為という事です。

 まず10節までに記されている事柄から、ダビデの病苦は並々ならぬものであった事が推察されます。しかも、それは人に忌み嫌われた病だったようです。おそらく伝染性の重い皮膚病ではなかったかと思われます。この病に苦しむ様はヨブ記にも通じる所があります。

 ヨブ記2:7〜3:1「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた…やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って…」

 ただ違うのは、ヨブは自分の内に罰として災いにあう原因が思い当たらないので、”自分が何故、苦難に遭うのか理由が分からずに苦しみ”ました…”ヨブの災いは信仰が練り聖められる為のもの”でした。

 一方のダビデは、”その病気は自分が犯した罪のゆえに、自分に降りかかってきたと考えていた”のでした…現実に、”自分に原因があって降りかかって来る災いと、信仰が練り聖められる為の災いという2通りの災いがある”のです。

 ”病気の時に人は孤独を感じ”ます…肉体的には1人で、その病を受けとめなければならないからです。正に、”病気は、その病の苦しみ+「太平洋独りぼっち」と言う孤独を味わう時”なのかも知れません。

しかもその病気が、伝染性の皮膚病となりますと、12節に「疫病にかかった私を愛する者も友も避けて立ち、私に近い者も、遠く離れて立ちます」とありますように、当時は親や兄弟からも見放される、想像を絶する孤独だったのです。

 その上、13節には、人々は孤独の病に陥った人に対して、同情する所か、「罰があたったから」という心ない噂をしたり、また人の存在価値を否定するのです…ダビデの場合は抹殺されようとしたのでした。

 しかし14〜15節を見ますと「私の耳は聞こえないかのように聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。私は聞く事のできない者、口に抗議する力もない者となりました」とあります…ここには、”じっと黙して耐えている姿がある”のです。

 続く16節に「主よ、私はなお、あなたを待ち望みます。私の主よ、私の神よ。御自身で私に答えてください」とあります…”神が答えて下さる。その時を神の答えて下さる時を、信じてじっと待つという信仰こそが、神の答えを受ける道”である事をダビデは書き残そうとしたのです。

 ”黙って耐え忍んだ”と聴きますと、私共が心の中で思い浮かべるのは、”十字架に架かられる前の主イエスの姿”であろうと思います。

 主イエスが十字架に架かられる前の裁判の様子を、福音書は、「人々が不思議に思うほど主イエスは沈黙を守られた」と記しました。それに”2つの理由があった”と言われます。

 ”1つは聖書の約束の成就の為”…「人の救いは、たった1人の罪なき神の独り子が、罪人である人間の身代わりに十字架に架かって、罪の贖いを成し遂げなければならない」という確信です。
 もう1つは、「私は死んで3日目に甦る」と何度も言われたように、”死が終わりではない”という確信があったという事です。

 その主イエスの姿と反対に、人間は、この病気で死ぬのではないか?と思った時は、”死を恐れる”のです…それは、死んだら終りだと思っているからではないでしょうか?

 しかし、”信仰は人を、その死の恐れから立ち上がらせる”のです…”死の向こうにある永遠の命がある事が分かって来るから”です…そして、”自分にとって死は最後でない。新しい世界への門出”と気づくからです。

 それは先週お話しした事にも通じます…”永遠の命を思う時、人の心ない言葉や仕打ちを受けても、その事から受けた心の傷は決定的な事でなくなって行きます”…そして、”必ず答えて下さる神、審かれる神への信頼によって復讐の思いを捨てる事が出来る”ようになるのです。

私共も、日々の生活の中で、いろんな出来事や、誤解や仕打ち、病に遭います…しかし、そうした中にあって、”神に望みを置き、死の向こうにある永遠の命を望み見つつ、祈り待ち望む者となりたい”と思うのです。

 ポ−ランドの司祭トゥファルドフスキーの詩集『あなたが祈る時、神があなたの中で息をなさる』の中に、こんな言葉がございます。

「祈るなら、ちょっと待たねばなりません。全てのものには時があります。預言者はそれを見抜いています。絶えずおねだりばかりしているような人は、望みに生きる事を止めています……。待つ事もできないのなら、祈らないでください」という言葉です。

 この司祭は、”迫害下に生きた人”と言われています…その中で、”信徒と共に教会という祈りの共同体の中に生きながら、何度も〜「祈るなら待たなければならない」と自分自身に言い聞かせ、また、信徒と共に、

 詩篇38篇17〜18節を読み祈ったのでした。「主よ、私共は尚、あなたを待ち望みます。私の主よ、私の神よ、御自身で私に答えてください。私は願いました『私の足がよろめく事のないように、彼らがそれを喜んで尊大にふるまう事がないように』と…。私は今や、到れそうになっています」”…このように、”祈りつつ事は待つ”事こそが、”神の祝福を受ける道”とダビデは此処で語っているのです。

 トゥファルドフスキー司祭も、ダビデも、”力尽きて倒れて手をつきそうになった時に、尚も、神の答えを祈りつつ待った”のでした!…そして、この”信じて待つ”事こそが、”神の救いの御手にあずかる信仰の極意”だと悟ったのでした。

 ”教会は、まさに、そのようにして、神を望みを見て、待ちつつ祈る群れ”なのです。そして、この”信仰の共同体の中にいる者だけが、苦難の中で、まさに孤独に倒れつつあるような中でも、共に神に信頼しつつ、神の救いの御手に預かる事が出来る”のです。