教会を建て上げる賜物

ロ−マの信徒への手紙12章3〜5節

12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
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  教会を建て上げる賜物

ロ−マの信徒への手紙12章3〜5節.2005.5/8

 先週はGWでした。「最近、鯉のぼりが少なくなったなあ」と思いながら過ごしておりました。鯉のぼりは、川の流れに逆らって泳ぐ鯉のような元気な子供に育って欲しいという親の願いが起源だと聞いた記憶があります。人はいろいろなものを天に求めますが、その1つ才能というものがあるかと思います。クリスチャンの場合は、”才能”でなく、父は”賜物”という形でお与え下さるのです。今朝は、この”賜物”について、ロ−マの信徒への手紙12章3〜5節から神の言に聴いて参ります。

 この”賜物”というのは、”父がクリスチャンに対して願いを込めて与えて下さるもの”です。ですから”才能”と似ていますが少々違うのです。才能は自分の為に用います。ですから”才能は、自我やエゴ、自己顕示欲とセット”になりがちです。しかし、”賜物”は、”教会を建て上げる為に神が与えて下さるもの”ですから、才能とは反対の形で、”仕える形で教会を建て上げる為に用いられる”のです。

 先日の尼崎のJRの脱線事故で、次々と企業体質の問題点が露呈して来ております。企業のエゴの体質が問題になっていますが、教会にそれがあっては建て上がって行かないのです。

 この”賜物”という言葉の語源は、”恵み(カリスマ)”と言う言葉です。”人の才能が神の恵みによって、砕かれ練り聖められて神様に与え直されるもの”だからです。今朝から学んでおります”ローマ12:3〜21節迄は、教会生活について具体的に書いてある、神の愛を土台とした道徳訓”ですので、或る意味分かりやすい箇所です。しかしいざ”実践しようとしますと不可能である事に気づかされる所でもある”のです。

 しかし父なる神と主イエスは、「その神の愛(アガペーの愛)を実践して教会を建て上げなさい」と言われるのです。もしそれが出来るならそれは奇跡です。

 先週はその奇跡が少しづつ自分に実現する為のクリスチャンの信仰の土台を先週学んだのです…それは、”日々、献身を持って霊的な礼拝に生きる”という事でした。その霊的な礼拝は”私達はぶどうの枝であり、ぶどうの木であるキリストに繋がらなければ実を結ぶ事が出来ない”とありますように”祈りの座で主と繋がる事無しに不可能”だという事でした。

 主イエスは、主に対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した弟子のペトロに対して「私はこの岩の上に私の教会を建てる」とマタイ16章18節で言われました。主を救い主と信じる者、主に繋がる者は、ローマ12:2が言うように”心が新たにされて、神の愛に生きる者と変えられて行く”のです。また”私達が、この愛に生きる為に変えられて行かなければ教会は建たない”のです。

 先週の新居浜教会の献堂式で、教区長の芦田師が、「会堂が建ったのは集会所が完成したという事で、これからの教会の信仰の歩みが教会堂にして行く」と言われました。本当にそうだと思いました。ですから”私共1人〜が献身という父への愛をもって、日々霊的な礼拝に生きて行く事は、信仰生活の基本中の基本であると共に、教会を建て上げて行く者としての使命でもある”のです。
 
 ローマ12:4〜5に「私達の一つの体は多くの部分から成り立っていても、全ての部分が同じ働きをしていないように、私達も数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」とあります。

 ”私達(教会)は、キリストの躰の各器官で、それぞれ違う役割と働きが与えられている”と言うのです。そして”頭に当たる部分がキリスト”なのです。ですから”教会は、キリストの事を主(頭)と呼ぶ”のです。そして”この主イエスに繋がりキリストの躰である為に、日々の霊的な礼拝が求められる”のです。

 使徒パウロは2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と言いました。これは、「禁欲的な生活をしなさい」という事ではないのです…”神の愛に根ざして、教会という主の躰を建て上げる人生を生きなさい”という事なのです。

 残念ながら、教会の中にはお客さん的なクリスチャンもいるのです。政治に譬えれば”与党的クリスチャンと野党的クリスチャン”と言えるかと思います。”与党は責任政党として責任を負いながら、先と全体を見ながら、一番国益のある道を選択して批判を甘んじて受けながら進みます”。一方の”野党の批判はカッコイイのですが、手を出さずに批判をする”面があります。与党がその権力により腐敗する所は問題ですが、責任政党として歩む重責をこなしているのです。

 ”キリストを救い主と信じ、キリストの血潮によって贖われて、キリストの躰とされたクリスチャンは、教会に対して野党ではいけない”と言うのです。”自分が繋がれたキリストの躰の教会に対して与党となる自覚を促しなさい”というのです…その意味で、私は”教会籍”を重んじているのです。

 主イエスも”毒麦の譬え”を語られました。マタイ13:25〜30
「天の国は次のように譬えられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て実ってみると、毒麦も現れた…僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時「まず毒麦を集め、焼く…』」と言われました。

 これは”キリストの躰を共に建てあげようとしないクリスチャンの事を指して言っている”のです…”キリストを主として歩もうとしないクリスチャンを毒麦であり、やがて審きの座で焼かれる”と言われたのでした。厳しい言葉です。

 ”教会の一致”というのは、違う意見を言わないという事ではありません…”キリストを主として歩む、キリストに喜んで頂く教会というキリストの躰を建て上げていこうと言う一致”なのです。これはとても〜大切な事なのです。
 

 また3節に、「…自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」とあります。父は、キリストを信ずる者全てに、この”賜物”をプレゼントして下さっているのです。例えば…”泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ賜物、信仰の賜物、祈りの賜物、忠実という賜物、礼拝に備えて教会の掃除の重荷を持つ賜物、献げる賜物、etcなど父の愛によって生まれる賜物”です。

ただ、ここに「慎み深く評価すべき(受け取るべき)」とある言葉に注意しなければなりません。
 「慎み深く」という言葉には、「健康」という意味があるのです。”才能は、人より優れていると傲慢になり、劣っていると卑屈になるという心の病んだ部分と結びつきやすい”と初めに言いました。そのままで僕になろうとしますと、心の中で人を見下している事が、奉仕してあげているという態度になって表れて来るのです。

 しかし、”聖霊によって罪を示され、神に愛される資格のない者が、一方的な神の愛を受けている事を知って行く時に、罪が聖められ、心を歪めている傷が癒され、コンプレックスから解放される”のです。そこで”才能が、賜物として変えられて再び与えられて、教会を建て上げていく者とされる”のです。”人が神の愛の中にいる時、神は御手の中で、障害さえも賜物と変えて与えて下さる”のです。

 私の祖母の姉に、梅津うめ牧師という女性伝道者がおりました。この方は山形県の雪深い町で、身体を壊されてから寝たきりで伝道された方でした。何十人もの人が、寝たきりの伝道者によって救われ、何人もの人が献身へと導かれたのです。

 20年程前、百万人の福音という伝道誌に、「ぼんがら(つらら)の朝」という題で自叙伝が連載されたりもしました。私は、うめ牧師の教会の保育園に通っていましたので、帰りに立ち寄った時、心地よい消毒の臭いと、自分を受け入れられて下さる何とも言えない居心地の良い雰囲気を覚えています。正に梅津うめ牧師は”寝ている賜物の人”でした。

 お見舞いに来た人々が、恵まれ喜んで帰って行き、また救われて行ったのでした。”神様は今も父なる神の為に、自分を献げて拠り頼んで来る者を待っておられる”のです。神はどんな事でもお出来になるからです…この朝も神は私共1人〜を見ておられ祝福し、教会を建て上げていく為に尊く用いようとしておられるのです。