「偽りのない愛に生きなさい」
ロ−マの信徒への手紙の12章9−21節
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
ヨハネによる福音書16章24節
「今迄は、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は(完全な)喜びで満たされる。イエスは既に勝っている」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「偽りのない愛に生きなさい」
ロ−マの信徒への手紙12章9−21節、2005.5/29
今朝はロ−マの信徒への手紙の12章9−21節、特に9節の「愛には偽りがあってはなりません」という御言葉中心に、前半に共に耳を傾けて参りたいと思います。これは、「愛には裏表があってはならない」という事です。そして、その事こそが、”キリストの躰である教会の土台となる”というのです。
裏表のない愛に生きる事がどんなに素晴らしいかは誰でも分かります。しかし、分かっていながら出来ないのも、この”裏表のない愛に生きる”という事ではないでしょうか?
世の中には愛という言葉が氾濫しております。愛という言葉が入っていない歌を探す方が難しい位です。しかし実際の所、世の愛は打算に色塗られたものばかりです。しかし、私共は、”打算の無い愛を十字架に見る事を知っている”のです。
11〜12節を見ますと「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とあります…これは”祈りについて述べている句”です。”祈りは、父なる神の愛の中で息をする事、会話をする事”です。ですから、”祈りによって父なる神の愛との聖霊による交りをさせて頂かなければ、人は裏表の無い愛に生き続ける事は出来ない”のではないでしょうか?
そして、この”父の愛との交わりをしている者は、教会生活にも現れてくる”と言うのです…
それは、10節「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」…”どんな人の中にも尊さを見抜き重んじ、受け入れ合う事こそ、打算のない神の愛に生きる者の姿”なのです。それは、”世の他の何処にもない姿”です。
”クリスチャンは、主が十字架で受けられた痛みを、自分に対する愛と信じた者達”です…言い換えれば、”99匹の羊を置いて、迷子になった1匹の羊を探し抜いた良い羊飼いの愛を、十字架に見出し、自分に対する主イエスの愛として受けた者達”です。”その愛を受け続ける事によって、キリスト者自身も、隣人の中に尊さを見抜いて、受け入れ愛する者と変えられ続けて行く”のです。
また、もし、”教会の愛が互いに尊ぶ愛”でなかったらどうでしょうか?…”教会はたちまち、べったり甘えあい依存しあう場と化してしまう”のです…”教会は甘え合う所ではなく、弱さを受け入れ合う所”なのです。”キリストの無条件な愛で受け留めて頂いた者は、その愛に癒されて自分を回復し、やがて自立してまいります。そして、他者の尊さを認め受け入れ愛する者と変えられていく筈”なのです。
”キリストが十字架でサタンに勝利された時、やがて新天新地が到来する事が約束されました。しかし、それ迄は、この世はサタンに支配されている世界”なのです…ですから「神さまどうしてこんな事が起きるのですか?」と目を覆いたくなるような事件や事故が相次ぐのです。
”キリストが、やがて支配される新天新地は、キリストが愛の力で完全に支配される世界”です…そして、その証拠は、”私共の心の中にある”のです。”キリストを心にお迎えした人の心の中に、キリストの力ある愛の支配が始まっている”からです。
主イエスは、そんな世の中にクリスチャンを送る事を「オオカミの中に羊を送り込むようなものだ」と言われました…だから使徒パウロも、ロマ12:11−12で「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と言ったのです。
”たゆまない祈りだけが、オオカミだらけの世の中にあって、羊であるクリスチャンが守り導かれる道だから”です。そして、その祈りの炎を燃やす材料こそが、望みであり、苦難であり、忍耐”なのです…”これらの事が人を祈りに向かわせる”からです。
更に、聖書は、”たゆまず祈る者の生き様を述べる”のです…「聖なる者達の貧しさを助け、旅人をもてなしなさい」。更に14−15節では「あなたがたを迫害する者の為に祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。あなた方を迫害する者の為に祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません」。
これは「打算のない愛、見返りの無い愛に生きなさい」と言う事です。「泣く者の為に泣く」事は同情心の篤い優しい人なら可能だと思いますが、”喜ぶ者と共に喜んだり、自分や大切な人を迫害する者の為に祝福を祈るというのは、生まれながらの人間には決して出来ない”事なのです。”もし、私共が人を赦す者、受け入れる者、共に喜ぶ者とされているのなら、それは神の愛による奇跡”なのです…「神の愛、此処にあり」という証し以外の何ものでもありません。
マルティンルターは、”「神が共に居て下さる」喜びが満ち溢れるのは、来るべき新天新地が到来する時”と言いました。”世の終わりの新天新地こそ、主イエスが愛をもって完全に支配される世界であり
、そこに悲しみは全くなく、完全な喜びと平安と賛美が満ち溢れているから”です…私達が、今、”この世で味わう事が出来る主の臨在は心の中”です。”主イエスの臨在による平安や慰めは、天国での主の愛の支配の一滴を試食するようなもの”なのです。しかし、そのような”一滴の主の臨在でも、苦難の中、忍耐しつつ祈る心に希望を与えてくれる”のです。
しかし、”人には主に信頼する事にうといという弱さがある”のです…”信仰は見えない主に信頼する事だから”です。試練や迫害や病気の辛さの中で、救いの喜びがあせてしまったり、主イエスが遠くに感じてしまうのです。
しかし、そんな人の弱さを知っておられる主イエスは、こう言われたのです…ヨハネ16章24節「今迄は、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は(完全な)喜びで満たされる。イエスは既に勝っている」と…。”苦難の中で、キリストの名によって祈る時、そこがキリストが共にいるという完全な喜びを知る所となる”と言われたのです。
”主イエスの御名によって祈る事は信仰”がなければ出来ません。何故なら、”主の御名によって祈るという事は、キリストが、今、私の祈りを父なる神に執り成し届けて下さっている事を信じる事”だからです。”キリストの御名によって祈る時、主の導きを私共は体験します…主が直ぐに答えて下さったり、ある時には、神の時が訪れるまで沈黙されます。また、ある時には思いもよらない御言葉が示されて導かれていく”のです…”正に神が生きておられて共にいて下さる事を、クリスチャンは祈りの中で知る”のです。
”主イエスが共に居て下さる事を知る者は、自分自身もキリストの愛と聖さによって変えられて行く事をも経験します”…だからこそ、”自分を迫害する者を呪うのでなく、その人の上に神の祝福がある事を祈る事が出来る”のです。”神が共にいる事だけが人を変える事を知っているから”です。
先日、新居浜教会の土台として生涯,主に仕えて来られた植田姉の葬儀がありました。この方は、三木姉の祖母でもあられます。三木姉はお母様がずっと御病気でしたので、6才の時から母親代わりに植田姉に育てて頂いたと伺いました。高橋牧師は、「植田姉は、主イエスに罪赦され、、死の問題に解決した喜びと平安に103年間貫かれて生きた方だった。そして、何時も天国を見上げ、自分の為、家族の為、教会の為に祈り抜かれた」と言われました。
私はお聴きしながら「その祈る姿には裏表がなかったのだろう」と思いました。ある時、植田姉は高橋牧師に「長く生きすぎました」と言われたそうです…それは自分より早く、愛する子供さんを天に送った痛みを語った言葉でした。老人ホームに通い世話をして下さった息子さんを亡くした悲しみは、この世で最も辛い痛みの1つだと思います。
高橋牧師は告別式で、詩篇23篇1〜4節を読まれました。
「主は私の牧者であって、私には乏しい事がない。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主は私の魂をいきかえらせ、み名のために私を正しい道に導かれる。たとい私は死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れません。あなたが私と共におられるからです。あなたの鞭と、あなたの杖は私を慰めます」。
高橋牧師は、「この御言葉に植田姉の顔が重なります」と言われました…私は、植田姉は、「どんな時にも、主イエスの臨在の中で慰められ、支えられたがゆえに、裏表のない愛で祈り続ける事が出来たのだろう」と思わされました。
”クリスチャンの心には、歴史に現された、このキリストの愛が、聖霊の臨在によって宿っている”のです。”神の愛は、単なる教えや道徳ではない”のです。”キリストの御名によって祈り、父なる神と交わる時、今も天から聖霊によって流れ込んで来る愛”なのです…そして、”人はこの父なる神の愛によって、裏表の無い愛に生きる者へと変えられて行く”のです。