「聖霊降臨−−開かれた福音」
使徒言行録2章22〜24節
2:22 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
2:23 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「聖霊降臨−−開かれた福音」
使徒言行録2章22〜24節.ペンテコステ礼拝 2005年5月15日
今朝は、キリスト教会が祝う三大主日の1つペンテコステ礼拝の日です。”主イエスの昇天を見送ってから10日後に、人々の心に天から霊なる神が降り、人に救いの御業が起こり、教会という地上を歩むキリストの躰が誕生した日”なのです。
キリスト教会の、「十字架につけられたナザレのイエス」を伝えるという宣教は、”一見イメージの悪い事を告げる出来事を、無学な人達に託され”て始められました…”人々にあざけられ、侮辱され、恥ずかしめに満ちた扱いを受たイエスという男が、最後には、神を冒涜する、最大の罪人として十字架につけられた”事だったからです。
しかも、あの十字架の上の名札には、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。その侮辱に満ちた十字架は、人間的に見れば主イエスの死は非業の死でしか無かったのです。
しかし、”父なる神は、この出来事の本当の意味を、この聖霊降臨の日に示された”のでした。”聖霊という三位一体の霊なる神を地上に降らせて、神の視点から語らせた”のでした。
それは「キリストの受難は、キリスト自身に罪があったからでなく、罪の無い御方が、私達の身代わりに神から審かれる為だったという事でありました。そして、その事によって、人々がありのままで救われる道が開かれた」と説き明かされたのでした。
こうして”聖霊が福音としての十字架”を教えて下さったのでした…”。それまで十字架は悲しいニュース”でした。しかし、”聖霊が降って人に、十字架は自分を救う道を開く為のものだったと教えて下さった時、十字架は喜びのニュース(福音)となった”のでした。
この”喜びのニュースとして、十字架を信じた者の心の中で、1つの出来事が始まるのです…それは、キリストが愛の力ある支配を始めるという天国の先取り”です。そして、”キリストの御旨を、地上で行う、キリストの躰である教会が地上に生まれた”のでした。
聖霊降臨日に、このような”神の良き知らせ(福音の説き明かし)が与えられて、使徒達や弟子達は、福音を宣べ伝える大きな力が与えられた”のでした。そして、それは何よりも大きな驚きであり、そして大きな慰めだったのです。
ペトロと他の使徒達は、同様に、その驚くべき力を与えられ、別人のようになって福音を宣べ伝えて行ったのでした。彼等が無学なただ人だったとは思えない、あたかも何百年も聖書を学んでき人のように、福音を力強く語り尽くしたのでした。
ボンヘッファーという若き神学者がおりました。彼はヒトラーに抵抗して殉教した人でも有名です。ボンヘッファーはある時こう言いました。「分かり切った事が私共に喜びを与える事はありません。私共の心に喜びの炎を点ずるのは、自分の理解を超えた、しかも真実な事、本当に起こった事、命あるものでしかないのです」と…。”そして彼は、その命を与えるもの(福音)の為に命を捨てた”のでした。
では、”私共の心に炎を点ずる事”とは何でしょうか?…それは”聖霊を受ける”という事に尽きます。弟子達を変えたのは、正にこの事だったのです。ボンヘッファーは続けてこうも言いました「それは、今も教会において起きているではないか!」と…。
”甦られて天に昇られた主イエスを見つめつつ、主イエスを待ち望んでいる教会に於いて、聖霊は今も降り、私達を復活の主に出会う者として下さっている”のです。
救い主であり復活された主を信じ見上げていた時に、御使いが現れて語りました「ガリラヤの人達、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様でまたおいでになる」(使徒言行録1章11節)という約束の体験者として下さるという事だったのです。
”聖霊が人の心に降る時、人は主の証人として変えられる”のです…尼崎のJR脱線事故で家族を失った人々にとっては、そろそろ身内の死というものを事実として受け入れなければならない時となってきたと思います。どんなに、「朝出かけたような元気な姿で戻ってきて欲しい」と願っても、もう死という事実を変える事は出来ない事を知る頃だからです。余りに残酷な現実ですが、受け入れて乗り越えて行くしか道は無いのです。
”聖霊を受けて主の証人として生まれ変わる道も、この事に通じる”のです…”事実を受け入れる”という点です。何を受け入れるのでしょうか?…”福音を受け入れる”のです。悲しみの事実と喜びの事実を同じにしては不謹慎ですが、”事実を受け入れる”という点では同じなのです。
”福音”というのは次の事です…「キリストが救い主としてこの世に来られ、そして救い主がすると預言されてきた通りの数々の不思議な御業をなさった事。そして、預言通りに救いの道を開く為、十字架に架かって下さった…それは私達の罪を赦す為、罪なき御方が、私達の罪を背負って、神に身代わりに審かれて死んで下さった事。しかし、父なる神は、その十字架こそが、救いの道を開くものだった事、また永遠の命を与える道が開かれた事を証明する為、キリストを復活させられた」という事です。
この”事実を、父なる神が私の為に成し遂げて下さったと受け入れる事”なのです。
主イエスの復活を信じる事が出来なかった弟子トマスの前に現れた主イエスが、手の釘跡を差し出しながら「あなたが信じる為なら、私の手の釘跡に、あなたの指を差し入れなさい」と言われたのでした。トマスは最初、そうしようとしました。しかし、その釘跡に自分の指を近づけて行った時、その場に崩れ落ちて主イエスの復活を受け入れたのでした。
そして、主イエスは、その時、「見ないで信ずる者は幸いである」と言われたのです…これは、私達に対しても言われた言葉なのです。「私をあなたの救い主として受け入れなさい…それが、あなたが私を信じる事なのだ」といっているのです。
”主イエスを信じるという事は、理解するという事ではありません。私の為に成し遂げられた神と御子の救いの御業を、自分の為だったと受け入れる事”なのです…そして、その時、あの2千年前と同様に、”聖霊は私共の心にも臨んで下さる”のです。ですから、私共の宣教も、説明して説得するという事ではないのです…”聖霊が自分に臨んで下さり、自分が救われた。そして、今も変えられ続けているという事を証しする事”なのです。
無学な弟子達の言葉によって、”十字架につけられたナザレのイエスこそ、神の独り子、私達の救い主だという事”が、言葉の限界を超えて全世界に宣教されて行ったように、”共に教会で、主イエスを受け入れ見上げる私共の心にも、聖霊は臨んで下さって、主の力ある証人として下さる”のです。