「生き生きと生きる為に」
ロ−マの信徒への手紙12章1〜2節
12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
12:2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「生き生きと生きる為に」
ロ−マの信徒への手紙12章1〜2節. 2005.5/1
]
このロ−マの信徒への手紙は11章まで、”救いの恵み”について書かれております。そして12章1節に「こういう訳で、兄弟達、神の憐れみによってあなた方に勧めます」とあるのです。それは「神の救いの恵みに預かった、あなたがたに勧めます」という事なのです。
この12章から16章までは、クリスチャンが生き生きと、救いの恵みに生きる秘訣を、実践的に記している”のです。
1節に「霊的な礼拝に生きる」という事が述べられております。これは”生き生きとした信仰生活に生きる秘訣”なのです。”信仰が知識や観念だけで終わってしまう”事があります。それは救い主が命がけで与えて下さった救いに預かりながら余りにも残念な事です。しかし、そうしたクリスチャンが多いのもまた現実なのです。
先週の月曜日に尼崎に於いて、未曾有の脱線事故が起きまして107名の死者と460名もの負傷者を出しました。U兄の息子さんは数本前の電車に乗っていて難を逃れたそうですが、同志社大学に入学したばかりの宝塚教会員の娘さんが亡くなりました。
まだ完全に究明されておりませんが、時間の遅れを取り戻そうとした運転手のスピードの出し過ぎと、急ブレーキが事故の原因の1つとも言われています。運転は基本を忘れたり行わない事がどんなに危険かを改めて思わされました。
”天国への道も信仰生活の基本を忘れてしまいますと脱線してしまう”のです。その”信仰生活の基本中の基本”こそが、この”12章の1節”です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」…この”礼拝”という言葉は口語訳聖書では、”霊的な礼拝”となっていますが、それは、”献身による礼拝”と言い換える事も出来ます。
”神に聖なる生け贄として身を献げて行く”という生き方は、”生き方を180度変え”なければ出来ません…それは、”恵みに根を降ろして生きる”事からしか生まれません…”恵みを受けて沸き上がって来る応答”だからです。だからそれは律法で強いても無理なのです。
私は名刺を使う機会が殆ど無かったので名刺を持っていませんでした。しかし、年齢的なものもあるのでしょうが、必要を感じて参りましてパソコンで名刺を作りました。名刺には肩書きを書きます。自分には肩書きがないので、職業である牧師とだけ書きました。
その時ふと思った事は、「もしクリスチャン共通の名刺があって、肩書きを書くとしたら何だろう?」という事でした。そこで思った事は、「イエス・キリストによって神の愛から引き離されない者とされた○○○○」という事でした。この恵みが分かって、人は初めて”救いの恵みにお応えしたい”と人生を180度方向転換できるのです…そして、この主に献身をもって応答する所で、人は神と心が通じあう”のです…だから”パウロは11章で、「先ず神の愛に対して目を醒ましなさい」と言ったのでした。
キリスト教は文化や芸術、福祉や人権や教育に対して多大な影響を与えて参りました。キリスト教の恩恵に預かっていない方は実は1人もいないのです。
そうした事が分かってキリスト教に関心を持って下さる人もおりますが、教会に足を踏み入れる人の多くは、日本人的宗教感覚のゆえ、先ず聖書の道徳的な教えに耳を傾けます。そして自分には厳しすぎるとアレルギー反応を示してしまうのです。
”幸いに救われて洗礼まで導かれても、多くのクリスチャンがキリスト教の知識に留まるのが現実”なのです。それでは教えは律法であり旧約聖書の時代と変わりません…しかし、”聖書が言う本当の信仰に生きる”という事は、”十字架で罪赦されて救われた者が、主と交わって喜びに生きる事”なのです。そして”そこから生まれる喜びの献身こそが霊的な礼拝”(新しい信仰の世界)なのです。
”霊的な礼拝”というのは、”日曜日の朝だけでなく、日々の主との交わりによる献身の生活”です。日曜日の朝の礼拝は、そんな日々の霊的な礼拝の力の源となる所なのです。礼拝で兄弟姉妹と共に、生ける神を見上げ、御言葉に聴き、心を合わせて祈り、霊的な交わりをし、聖書の正しい知識を学ぶ事が、”信仰を週毎に新しくし、そして確かにしていく”からです。
パウロは次に、クリスチャンの実践的な生き方を説いています…”霊的な礼拝に生きる極意と言いますか、基本を述べている”のです。2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようになりなさい」…ここに「わきまえる」とありますが、この言葉には、「本質を見分ける」という意味があるのです。
それは、”自分にとって本当に無くては成らぬものと、無くても済むものを見分ける目を持つという事”でもあります…”主イエスが喜ばれる第一の物を第一にし、第二の物を第二に判別する目を養う事”です。
この”信仰生活の基本中の基本が培われていない”と、無くて済む物の為に一生懸命になり、本当に無くてならぬものに無頓着になる…そして、”空を討つ拳闘のような空虚なクリスチャン生活”になってしまうのです。この”主イエスが喜ばれる事を見分ける目を養う事”は、”祈りの座でキリストとの交りを持っているかいないかで決まります…人は祈りの座で、主の御心を聖霊に教えて頂くから”です。
「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がありますが、クリスチャン生涯には、”主が喜ばれる第一のものを第一にする献身を伴う決断をする時が必ずある”のです…それを”聖め”とも言います。
時に、”神を信ずるがゆえに損をするかのように感じる事がある”かも知れません。しかし、二千年間
教会が培ってきた信用、世界の人口の1/3のクリスチャンが培ってきた信用で、この世から信用も受けているのです。でも確かに損をする時もあります。日本のようなクリスチャンが少ない社会にあっては、”クリスチャンを迫害して試すから”です。世界では迫害ゆえに命を落とす事もあるのです。損と言えばこれ以上の損はありません。
しかし、”神の為に損をしている者が必ず神に示される恵みがある”のです…それは、「先ず、神が自分の為に献身して御子を献げて下さった」という事です…その”日々、献身する霊的な礼拝に生きる人は、神の献身の愛に迫られ、神に向かって押し出されていく”のです。
パウロは1節で「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言いました…この”憐れみ”という言葉には、”心の苦しみ”という意味があります。「父の心の苦しみによって、あなたがたに勧める」とパウロは言ったのでした。
Uコリント1章3節では「ほむべきかな、私達の主イエス・キリストの父なる神、憐れみ深き父、慰めに満ちたる神」(口語訳)ともパウロは言っています…”父は私共と共に苦しんで下さると共に、憐れんで満ち満ちた慰めをも下さる御方だと約束して下さっている”のです。
先週の火曜日に突然、新居浜教会員のU姉が召されました。木曜日の告別式に教会の何人かの方と共に参列しました。U姉は長く新居浜教会の役員として教会を負って来られた方でした。新会堂の為にも重荷を負って祈って〜来られたかたでした。新会堂で葬儀をしたいと言っておられたそうですが、献堂式を前にした突然の死で、はたしてそれが現実となってしまいました。
高橋先生も、説教中、絶句され涙しておられました。また、U姉は関西におられた娘さんが家庭集会を開かれた事に感化を受け、ご自分も家庭集会を始められ、御病気でやめられる迄、計200回されたそうです。礼拝や祈祷会は1回も休まれた事がなかったそうです。
15〜16年前、宝塚におられた娘さんが亡くなった後は、孫のHちゃんを育てられました。しかし、そのU姉も始めから信仰熱心だったわけでなく、復活の主が疑った弟子達の前に現れて下さったように、U姉の疑いを貫いて主が出会って下さり、上田姉の手を導き続けて下さったのだそうです。
葬儀の打ち合わせに高橋先生が御自宅に行かれた時には、何時も聖書を読み祈っておられた机の上に、晩年かかったパーキンソン病による、震える手で書かれた伝道会の案内の封書があったそうです。神が自分と共に苦しんで下さる事と、自分を憐れんで慰めて下さる御方だと知った者の心には、このような真実な喜びの応答が生まれて来るのです。
”キリスト者は、日々、祈りの座で霊的な礼拝を献げて行きたいものです…そこで”主が臨在をもって私共を生き生きと生かして下さる”からです。