捨てられない神

ロ−マの信徒への手紙11章1〜2a節 【口語訳】

11:1 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
11:2 神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。

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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  捨てられない神
 
【口語訳】 ロ−マの信徒への手紙11章1〜2a節、2005.4/3

 今朝、共に聴きました神の言は、「そこで、私は問う、神はその民を捨てたのであろうか?」という自問自答から始まります。御自分の民というのは、繰り返し出て来ましたが、”ユダヤ人の事を指している”のです。このユダヤ人が神の御子キリストを受け入れずに、十字架に架けて殺したのでした。我が子を殺して反省もしない者を愛する親などおりません。神がイスラエルを怒り、見捨てても仕方がありませんでした。そんな中で使徒パウロは問うたのです。「神は、その民を捨てたのだろうか?」と…。

 「神が人を見捨てる」という言葉を聴きますと、”八甲田山死の彷徨”という小説を思い出します。”八甲田山”という映画にもなったのでご存知の方もおられると思います。日露戦争前に、ロシアとのシベリアでの戦いに備えて、青森県にある雪の八甲田山で雪中行軍の演習をして遭難した実話です。多くの兵士が樹氷のようになり、凍死したり凍傷になって手足を切断しました。そうした地獄のような中で「天は我を見放した」と絶叫するシーンです。

 そのような思いを抱いてしまう所を誰もが1度や2度は通ると思います。しかし、パウロは続けて「断じてそうではない」…「神が私共を見捨てる等という事は断じてない」と言ったのでした。

 確かに、”神を信じたがゆえに殉教した人々”もいます。彼等は神の助けなく死に至ったように見えますが、”永遠の命、永遠の報いという視点から見れば、殉教者も神は見捨てられたのではない”のです。教会最初の殉教者ステパノが殉教する時、キリストが天の神の右の御座から立ち上がっているお姿を、ステパノは息をひきとる間際に見て慰められたのでした…この事は、”神の為に命をかける者に、主イエスが天で冠と報いを備えながら、見守って下さる事を物語っている”のです。

 人は皆、”不安”を抱えて生きています…それゆえ最初に生まれた学問は、季節を知る為の天文学、そして医学と占星術でした。”全て人間を守る学問”です。”占い”は人の心にある不安が生み出しました…”何か自分の運命を支配する大きな力があるのではないか?…その力が握っている自分の運命を知りたい事が占いの動機”です…そこには、”神が私を見捨てず持ち運んで下さるという信仰が無い”のです。そうした”不信仰をもたらすゆえ聖書は占いを禁じる”のです。

 今、ここで共に、「神はその民を捨てたのであろうか。断じてそうではない」という御言葉に耳を傾けたいと思います。「神は私を覚えておられる。神は私を決してお見捨てにならない」…この”信仰の確信は、人の心に前に進む力を生み出す”のです。

 度々御紹介しております、北海道家庭学校というミッションスクールがあります。非行少年少女を受け入れて更正を目指す学校です。校長の谷昌恒先生は、教育現場を通して実に心に響く言葉を語られる方です。谷校長は、「不平不満は病む者の心理である」と言われました…「不平不満の思いが心に留まるようになったら、自分は不平不満の病になったのだ。病人になったから、この思いに留まって前に進めなくなったのだと思って欲しい」と言う事です。

 人生には必ず問題が起こります…その時、問題点をしっかり分析して前向きに対処する事は大切な事です。しかし人は問題の中で、しばしば、”その問題に支配されて不平不満に留まって前に進めなくなってしまう”のです。

 谷校長は、親や社会に捨てられて不良になってしまった少年少女に「君たちは捨てられていない。神様は決して君たちを捨てられない」と言い続けて、”不良に留まろうとする子供達の心を前を向かせ、共にそこから立ち上がっておられる”のです。

 それは私共にも言える事ではないでしょうか?…”「神は断じてあなたを見捨てない」という”聖霊の細き御声に聴いて行く時、不平不満の病に留まる事なく前に進んでいく事が出来る”のです。私自身も、そうした弱さを持つ者として、毎日〜”「神は断じてあなたを見捨てない」という聖霊の細き御声を聴くように務めている”1人です。

 更に使徒パウロは、この「断じて見捨てられない神」を歴史から証明するように語り続けます…「私もイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である」と…。

  「私もイスラエル人であり」と言うのは、”イスラエル人は神の民でありながら、神の民の為に遣わされた救い主を拒んで十字架に架けた”…正に”救い主を捨てた民”でした。そこで神はイスラエルを捨てられたのでしょうか?…いえ、そうではありませんでした。

 ”救い主を頑なに拒む、神の民の救いを後回しにして、異邦人の救いを先に回し、異邦人が先に救われて行く姿を見て、神の民のプライドを傷つけられたイスラエル人が、それを妬んで救いを求める様になる”…という、とてつもない”遠回りの道をとられた”のでした。そうした神の決断に従って使徒パウロも、異邦人伝道に赴いたのです。

 しかし、それは”神がイスラエル人を見捨てたのではありません”でした。それはパウロの祈りから分かります。「神よ。私は同胞イスラエル人の救いの為なら、自分が代わりに呪われて地獄に堕とされても良いから彼等をお救い下さい」…この祈りは、それまで、パウロが祈りの中で、”イスラエルに対する神の痛みと重荷を知り、それが自分の重荷となって来て出て来た祈り”なのです。

 使徒パウロは続いて、「自分はアブラハムの子孫、ベニヤミン族の者でもある」とも言いました。”イスラエル人は、神が信仰の父であるアブラハムに対して、神が「あなたの子孫を神の民として祝福する」と結ばれた契約のゆえに神の民として祝福されると考えていた”のです。それが、みなさんご存知の、あのザーカイに対する主イエスの御言葉にも現れているのです。

 十字架に架かる日が迫ったある時、主イエスがエリコという町に入られました。そこに悪徳取税人ザーカイが登場するのです。彼は非業な悪徳ぶりで、人々から「神に捨てられた男」というレッテルを貼られておりました。そんなザーカイが木に登って見物しているのを見つけた主イエスが、突然「ザアカイよ、降りてきなさい。今日、私はあなたの所に泊まる事にしているから」と声をかけられたのでした。

 主イエスが自分の名を御存知である事と、嫌われ者の自分に声をかけて下さった事に驚いたザーカイは急いで降りて行きました。そんなザーカイに対して主イエスは、「救いが今日、この家に来た。ザーカイもアブラハムの子なのだから」と言ったのでした。

「アブラハムの子孫は神との契約ゆえに、決して神に見捨てられない」という主イエスのお言葉でした。ここに、”神の民とした者を決して捨てられない神の言がある”のです。ザアカイは後に牧師になったと言われています…「あいつは昔、悪徳取税人だった」という陰口が聞こえて来たに違いありません。そんな時、ザアカイは、「私を見て下さい。そのような者が、神に捨てられずに、こんなに変えられた」と神を証ししたに違いありません。

 更にパウロは、「私はベニヤミン族の者でもある」と言いました…”ベニヤミン族”というのは”イスラエルの12部族の中で最も小さな民族”でした。しかし、神はその小さな部族を忘れられなかったのです…2節に、「神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てる事はされなかった」とあります…この「知る」というのは、「愛している」という事なのです。つまり、パウロはここで、「神は、小さな自分のベニヤミン族を忘れずに愛されて、そこからイスラエルの初代の王サウロ、悲しみの預言者エレミヤ、そしてパウロ自身も起こされた」と言ったのです。

 ここで使徒パウロは一言もキリストの事を話しておりません…しかし、”パウロの心の中は何時、何処を切ってもキリストの事で一杯”でした。ですから、「神というお方は、断じて捨てる事はなさらない」と言った時、”神はキリストを十字架で捨てられたが、死の闇に捨て置かれず、3日後に死の殻を打ち破り御子を復活させられた事”を思い描いていたに違いありません。聴いていた人々も、”十字架と復活を思い起こしていた”と思います。

ですから、”私共も「この神は断じて私を見捨てられない。復活の力をもって導いて下さる」という所に共に立って、”不平不満の病から癒され、神の導きの中を前に進んで行きたい”と思うのです。