「接ぎ木された者達」
ロ−マの信徒への手紙11章11〜23節
11:11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
11:13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
11:14 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
11:15 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
11:16 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
11:17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
11:18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
11:19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
11:20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
11:21 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
11:22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
11:23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
ヨハネによる福音書15章5節
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「接ぎ木された者達」
ロ−マの信徒への手紙11章11〜23節.2005.4/24
この朝、私達が聴こうとしている神の言はローマ11章の11〜23節です。”神が信仰の父アブラハムとの間に結ばれた契約”ゆえ、イスラエルは神の民として選ばれる光栄に預かりました。しかし、そんな”イスラエルの歴史は、神を忘れて罪を犯し、堕落を繰り返すもの”でした。
そうした神の民に対して、父なる神は心の痛め、預言者を通して悔い改めを促しながら、「あなたを私の民とする」と何度も〜宣言されたのでした。しかし、”神の民の不真実は変らなかった”のです…。
そこで”神は最後の手段として、御子を救い主としてこの世にお送り下さった”のでした。しかし”神の民は救い主さえも頑なに拒み十字架に架けた”のでした。しかし”神は、3日後に、その御子を死から復活させられて、十字架が人の罪を赦し、永遠の命を与えるものとなった事を保証して見せて下さった”のでした。
しかし、”神の民イスラエルは尚も頑なに救い主を拒否し続けた”のです。そこで”全知全能なる神は、その神の知恵をもって方針転換された”のでした…それが、”ローマ11章4〜5節に記されています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられる事が、世界の和解となる…」と書いてあります。それは,”異邦人の救いを先にまわす道”でした。 ”
全世界と神との和解を先にする”という事でした。失敗や挫折を通して、自分の姿に気づいて神の下に立ち帰る事は、”ユダヤ人に限らず全ての神の民が経験する事”です…”神の御心恵みを、人は失敗や挫折、そして弱さの中で知るから”です。ユダヤ人は、異邦人を妬んで救い主を拒んだ事によって、神の救いから離れてしまった失敗に初めて気づいて救い主を求めるようになるのです。
挫折や苦しみは、当座は神が御顔を隠されているように遠くに感じます。しかし、そんな時こそ、この21節「神は、自然に生えた枝(ユダヤ人)を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう」を思い出せたら幸いです…神はユダヤ人に対し、何処までも”容赦して下さった=受容して下さった”という事です。
この神を見る時、「神は自分に対しても受容し抜いて下さる…1度、御自分のものとして選んだ自分に対して下手な事はなさらない」と言う事を教えられるのです。この事は、”しっかりと心に刻んでおきたい事”であります。
17〜20節には、”接ぎ木”の事が記されています。”選民ユダヤ人を木の根であるキリストから切り倒し、異邦人(全世界)をキリストに接ぎ木されるという、神の方向転換について書いてあるのです。
17〜18節「…ある枝(ユダヤ人)が折り取られ、野生のオリーブであるあなた(異邦人)が、その代わりに接ぎ木され、根(キリスト)から豊かな養分を受けるようになる」とあります。ここを読みますと、パウロは私共、”異邦人”の事を、”野生のオリーブ”と言っている事に気づきます。
”オリーブ”というのは、”神の民を象徴する言葉”です…”野生のオリーブ”という表現は、”異邦人は手入れが行き届いていない枯れかけた木”だと言っているのです…”神から離れて霊的な命が枯れかけている民”だったと言うのです。
日本人には、”野生のオリーブを野良犬と言い換えた方がピンと来る”かも知れません…土居に転任して来て半年が経った時に1匹の雑種の子犬を拾いマロンと名付けました。その子犬は学校に馴染めず体調を崩していた子供達の心を癒してくれました。
しかし、生まれつき心臓に持病があり、更に4才になった時に白血病に近い病にかかり9ヶ月間闘病しました。家族が1つ心で看病しました。そんなマロンが天国に帰って暫くした時、それを見ていたご近所の方が、ダックスフンドの「もも」という名の子犬を下さったのです。捨て犬ばかり飼ってきた我が家にとって初めての血統書が付いた犬でした。でも、”家族にとっては、雑種も血統書も関係ありません”。どちらも大切な家族の一員なのです。
”父なる神が、野生のオリーブ(霊的に命が枯れていた)私共を神の民として接ぎ木して下さった”のは、私共が神の民として選ばれる条件を満たしていたからでなく、”隔てなく愛される父の愛ゆえ”だったのです。
”私共が接ぎ木された”という事は、”根であるキリストに接ぎ木されたという事”です…私共は”キリストに接ぎ木されるので、根であるキリストから霊的な命を受ける事が出来る”のです。
主イエスご自身も、ヨハネ15:5で「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われているのです。
この所を読んでおりまして目につく言葉は、「あなた」です。「あなたがた異邦人」「根があなたを支えている」「あなたは信仰によって立っています」「神が自然に生えた枝(ユダヤ人)を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう」また、「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみに留まる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです。もし留まらないなら、あなたも切り取られるでしょう」
パウロが「あなた〜」と言ったのは、”これらの事を他人事として聴いて欲しくないから”でした。どうも当時の教会では”他人事として、この大切なメッセージを聴いていた人々がいた”ようです。私共の中にも礼拝で説教を聴きながら、「これは誰〜に聴かせたい」と思いながら聞いた経験のある方は多いと思います。当時の教会もそうだったようです。
”当時の教会にはユダヤ人のクリスチャン”もおりました。”ユダヤ人はキリストを拒んで十字架につけた民”でした。隣りに座っている人がユダヤ人の時もあったのです。
親、兄弟、子供が仇の親族が座っている事を想像して下さい。初代教会も、”「この人の仲間が、愛する主イエスを十字架につけた。この人の同胞が悔い改めないから、父なる神も、パウロ先生も、今もこんなに苦しんでいる」という責める思いが沸々と湧いてきたり、ユダヤ人を軽んじる風潮が残っていた”のでした。また、”ユダヤ人のキリスト者達が、教会で肩身の狭い思いをしていた”のでした。
それを見て心痛めたパウロが、心痛めて言ったのがこの所なのです。パウロは、異邦人達に、「今、私が言っている事を、他人事としてでなく自分への神からの言葉として聴いて欲しい」と言ったのでした。今、アジアと日本の摩擦が問題になっています。個人的には理解しあえても、民族間の問題となると、しこりを取るのが難しいのは、当時の教会も同じだったのでした。
パウロが22節で「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者達に対しては厳しさがあり、神の慈しみに留まる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです。もし留まらないなら、あなたも切り取られるでしょう」と言ったのです…これは、”これらの事をユダヤ人の事として聴き鈍い心、見えない目、聞こえない耳に留まっている限り、神は何時か厳しく、あなたに臨む。けれども、父の慈しみに留まろうとするなら、キリストは何処までも〜、あなたを慈しまれる」と言っているのです。
更に23節では「神は、彼らを再び接ぎ木する事がおできになるのです」と言ったのでした…「神はあなたを接ぎ木する事がお出来になる。これは、あなたに対する父の言葉なのだ」とパウロは言ったのでした。
”弟子のペトロもキリストの慈しみに預かった1人”です。熱心な弟子のペトロは十字架を目前としたイエス様に、「私は死んでもあなたについて行きます」と言った時、キリストに「あなたは、鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うであろう」と言われて落胆したのでした。
はたしてその晩、主が言われた通りに、”「主イエスを知らない」と三度も言ってしまった”のです。鶏が鳴いた瞬間、はっと我に返ったペトロは、挫折感の内に男泣きに泣きました。
その時ペトロは、主イエスが、ペトロの裏切りの予告の前に言われた言葉を思い出したのです。「しかし、私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」。
「主イエスは自分が主を裏切る事は始めから御存知だったのだ。主は今も、そんな私の弱さの為にお祈りして下さっている…だから、何時の日か、こんな自分も立ち直って、兄弟を力づける者となる時が来る」と信じる事が出来たのでした。
この朝、共に、23節「神は、彼らを再び接ぎ木する事がおできになる」という言葉を”自分への主の語りかけ”として聴いて、”ぶどうの木である命の主に留まって歩み出したい”と思います。また、教会も、午後におこなわれる教会総会を通して、過ぎし1年、主に留まっていたかを吟味し、迎える新しい年度も、主に留まり主を頭とする共同体として歩んで参りたいと願います。