「眠りから呼び起こされる主」
ロ−マの信徒への手紙11章2−5節
11:2 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
11:3 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
11:4 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。
11:5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
歴代誌下16章9節
「主は世界中至る所を見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」11:7
では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
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「救いに選ばれた者として」
ロ−マの信徒への手紙11章2〜5節.2005.4/17
今朝は、ロ−マの信徒への手紙の11章2〜5節から神の言に聴いて参ります。今朝は11節からの予定でしたが、読んでいる内に、先々週時間の都合で割愛したエリヤの物語から学んでおく必要を思わされましたので、さかのぼって2〜5節を学んで参ります。
2節に「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか」とあります。このエリヤというのは旧約聖書に登場する預言者です。
ローマ11章2〜4節は、列王記上18〜19章をまとめて記している所です。イスラエルの国境にあるカルメル山の頂で、バアルの神とアシタロテの神という偶像に仕えていた偽預言者850人に対して、エリヤが1人で対決した場面です。カルメル山の頂で祭壇を築いて犠牲を献げ、どちらの神がその祈りに答えて火を降すかという勝負を偽預言者としたのでした。
バアルとアシタロテの神に仕えていた偽預言者850人は、朝から晩まで大声で祈り続けました。それでも火が降って来る様子がないので、今度は自分達の体を傷つけ血を流しながら祈り求めましたが、火が降らなかったのです。
次ぎにエリヤの番が来ました。エリヤが祭壇の前に立ち祈り始めた時、神は祈りに答えられて天から火を降されたのでした。すると、それを見ていた民はひれ伏して、「主こそ神である」と言ったと言うのです。
そこ迄は良かったのですが、”エリヤは勝利に有頂天になりすぎ”て、偽預言者達を全員処刑してしまったのでした。その事が、王妃イゼベルの耳に入って怒りを買い、今度はエリヤ自身が命を狙われる身となってしまったのです。
今、報道されている京都の教会で、忌まわしい事件を起こした金牧師は「私は神に近い者だ」と言ったと聞きました。人間は有頂天になったり、傲慢になりますと、サタンに隙を与えてしまうのです。
敵を前にしても、信仰に立ち勝利したエリヤでしたが、サタンには勝てず、罪を犯して挫折して逃げ出す事になったのでした。40日歩いて神の山ホレブに着いた時、”神の御声が聴こえて来た”のです。「ここで何をしているのか?」という御声でした。ドキッとする心探られる言葉です。
思わぬ神の言に、心を引き出されたエリヤは、本音を神に漏らしたのです…「神さま、神の民が皆、あなたを捨てた時、自分はたった1人で神に仕えて来たのです。それなのに、今、何故、自分を助けて下さらないのですか?」と。
そんなエリヤに神は答えられました。「お前は1人で火を呼び降したかのように言っているが、私はバアルに膝をかがめない七千人を私の為に残していたのだ」と…。”神は、神に留まった残りの者七千人に、背後で祈らせていた”のです。
この時エリヤの目の曇りは取り除かれました…そして、”神は選ばれた者を決して捨てない御方である”と知ったのです。「神は自分を1人で戦わせたのではなかった、相手の850人よりも多い、七千人を祈り手として備えて下さっていた。また挫折している今も、御声をかけて、自分を捨てずに召しを全うさせようとして下さっている」と知ったのです…このように、エリヤの物語には、”選んだ者を決して捨てられない神を見る事が出来る”のです。
しかし、「神は選んだ者を決して捨てられない」と聞きますと、必ず「ならば神の選び(救い)に預かった者は、何をしても良いのだろう」と思う人が出て来るのです。
使徒パウロは、そうした人間の本性を知っていましたので、7節でこう言いました。「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです」と…。「神の民として選ばれたイスラエルは、神から離れた結果、捨てられてはいないが、まだ救いに預かれないでいる」と言ったのです。
”神は選ばれた者を決して捨てられません。しかし、私共が鈍い心、眠れる心に留まり、信仰による応答(キリストと交わる生活)へと踏み出さないなら、救われた者として実を結ぶ事は出来ない”とも言うのです。
この「神の選び」は、キリスト教の大切な教理の1つです。宗教改革以来、「神の選び」に対する二つの大きな考え方が教会にあります。
一つは「カルヴァン主義」と言う考え方で、「一度、神に選ばれた者は、神から離れても絶対に捨てられない」という考え方です。
もう一つは、「アルミにアン主義」という考え方で、日本ホーリネス教団は此処に属します。「神の選びは、人間の側も信仰によってお応えして行かないと、人には届かない」というものです。言い換えますと、「救いへと選んで下さった神に対して、人間の側も、信仰によって応答する事によって、神の選びの実を結ぶ」というのです。
このロ−マの信徒への手紙11章には、カルヴァン主義の「選んだ者を絶対に捨てない神」とアルミにアン主義の「選ばれた者(人間側)の応答によって、救い(選び)が実を結ぶ」という事のどちらも記されているのです。
先週、祈ろうと思いまして、海に行き、山を見上げながら聖書を開きました。その時、御言葉が、主イエスが語りかけて下さった様に心に響いて参りました。神が創られた自然の中で祈りますと、神の言に聴く心が開くのです。こうした”キリストとの交わりこそ、救われた者(選ばれた者)の応答”であり、この”主との交わりの中で、そこで人は恵みを受ける”という事を思わされました。
歴代誌下16章9節に「主は世界中至る所を見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とあります。エリヤは1人で神に仕えて戦っていたと思っていました。しかし”背後で、神の選びに留まった七千人が祈っていた”事を知りました。
彼等は目立たない人々でしたが、神は祈りに答えて力をもって働かれる御方なので、神にとって残りの者達は貴重な者達だったのです…”神は「七千人を、私の為に残した」と言われました。神は、神の民として残って、御自身の思いと1つ思いで生きる者達の祈りを必要とされた”のでした…そして、そこに神は力を現されたのでした。
ロ−マの信徒への手紙11章4〜5節「…『私は、バアルにひざまずかなかった七千人を自分の為に残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」
神は、バアルの神に跪かなかった七千人を、「私の為に残しておいた」と言われました。それは、その者達の祈りに答えて神の力を現される為でした。そして、今の時代にも、恵みによって神に選ばれた者達がいるというのです…”私共こそが、その神の恵みによって、救いに選ばれ、神の側に残っている者達”なのです。
ですから私共も神の民として、この神の選びに留まり、自分の為だけでなく、土居教会の為、そして家庭、学校、職場、社会の為に、祈る者として歩んで参りたい。そして、神の力、神の栄光の目撃者として頂きましょう。