「眠りから呼び起こされる主」
ロ−マの信徒への手紙11章7−9節
11:7 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
11:8 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
11:9 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。
エゼキエル37章1〜14節
「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨で一杯であった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。
その時、主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返る事ができるか」私は答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。そこで、主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前達の中に霊を吹き込む。すると、お前達は生き返る…私は命じられたように預言した。
私が預言していると音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。
主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」私は命じられたように預言した。
すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った…私が墓を開いて、お前達を墓から引き上げる時、わが民よ、お前達は私が主である事を知るようになる。また、私がお前達の中に霊を吹き込むと、お前達は生きる」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「眠りから呼び起こされる主」
この朝、私共に与えられている御言葉は、ローマの信徒への手紙11章7〜9節です。先ず目に飛び込んで来るのは8節の「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至る迄」という御言葉です。
これは旧約聖書の2箇所からの引用だと言われております。1つは、申命記29章3節「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった」です。もう1つはイザヤ29章10節「主が深い眠りの霊をあなた方の上に注ぎ、あなた方の目である預言者を閉じこめ、あなたがたの頭である先見者を覆われたからである」と言われます。
こうして旧約聖書を合わせて読みますと、使徒パウロが、この7節で「鈍い心」と言っているのは、「悟らない心」「深く眠っている心」である事が分かります。
皆さんも”睡魔に襲われた経験”があると思います…”睡魔”は、”魔”と言うだけありまして、どうにも抗しがたい力であります。意識が薄れ、聞いている話が、どんなに面白かろうが、大切な話しだろうが、その声がどんどん遠くになって行くのです。そして聴いて感じる心がストップしてしまいます。
今、”面白い話”と言いましたが、今、お笑いがブームになっているように、今の日本は、面白がる人と面白がらせる人(商売)で営まれているように思います。TVも視聴率至上主義で、どんどん刺激的になりまして、刺激に麻痺して、”本当に大切な話にも心が動かなくなっている”のです。二千年前の”ユダヤ人も、イエス・キリストの御言葉に耳を傾けず、使徒パウロは悩み心を痛ませた”のでした。
昨年の夏、教団初めての青年の全国大会であるYouth Jam2004が開催されました。ゲストに石井希尚(マレ)さんがコンサートとメッセージをして下さいました。この方は、牧師であり、ミュージシャン、またフリースクールの校長であり、結婚カウンセラーです。この結婚カウンセリングの経験を生かして書いた本「愚かな女は騒がしい。賢い男は珍しい」と「この人と結婚していいの?」がベストセラーになったので御存知の方もおられると思います。
青年達にとってはカリスマ的存在であるマレさんのコンサート中、ノリにノッテていた青年達が、説教が始まりますと、前夜の夜更かしのせいで居眠りし始めたのです。心の中で、「神様、この子達の心に飢え渇きを与えて下さい。目を醒まして御言葉に聴くようにして下さい」と祈り続けていました。
その時、一瞬マレさんが沈黙され、「眠りたい者は、本当に構わないから出て行って下さい。神の言を聴こうとしている人の士気が下がるから」と言われたのです。500人が揃ってハッとしたのを思い出します。さすがに、これは礼拝では言えない言葉ですが、これが、「これは、あなたが聴くべき神の言だ。これに聴きなさい」と大会衆を前に迫る気迫なのだなと思わされました。
”主イエスが地上を歩まれた時もそうでした…人々は主イエスの事を面白がって噂し、人がどんどん集まってきたのです。そして主イエスの後をついて歩いたのでした。けれども、”キリストが、救いの道を心を込めて語り始めますと、人々は心を閉ざした”のでした。マレさんのコンサートにノッいた青年達が、説教が始まった途端、居眠りを始めた姿と同じです。
主イエスは何度も、「聴け」(シェーマー)、また「目を醒ましていなさい」と言われました。それは、「人々の魂の深い眠りを呼び覚まそう」とする言葉でした。しかし、”人々はそれを嫌った”のでした…”不安になった”からです。それは、それ迄の”宗教の形態が全く変わってしまうから”でした。
”律法を守る事による救いを求めてきた道が崩されるから”です。主イエスが「私は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言われたのは、”十字架と3日後の復活によって、新しい神殿=新しい救いの道を建てられる事を指していた”のでした。
「主イエスを救い主と信じる信仰によって、十字架によって罪赦され、更に、天から降る聖霊によって生かされる新しい世界が生まれる」…この”新しい救いの道”、しかし誰1人見た事もない世界に人々は不安を抱いたのです。
宗教家に至っては、「救い主を待ち望むように」と説いて来たにも拘わらず、自分達の名声と権力が奪われてしまう事を恐れ、”自分達の手で主イエスを殺してしまった”のでした…私共は、”神を信じる人々が、深い眠りから起こされる事に不安を覚えた事、そして、その不安が救い主を殺した事を忘れてはならない”と思うのです。
”教会は、誕生してから二千年の間、ずっと聖霊によって、深い眠りから呼び起こされた人々によって受け継がれて来た”のです。ですから、”「眠っている者があれば起こして下さい」と祈るのが教会の祈り”だと思うのです。
宗教改革者ルターも、聖霊によって真理へと呼び起こされた1人でした。”彼が目覚めなかったら、今のキリスト教会はなかった”のです。先週、共に聴きました”「神は断じてあなたを捨てない」というお約束も、魂が眠っていてのでは、その聖霊の細き御声を確かな声として聴く事は出来ない”のです。ですから、これは”「眠っている者があれば起こして下さい」と言う教会の祈りなのです。
周りを見渡して、〜の為の祈る祈りではなく、自分を含めた、教会全ての者達の為に祈る祈り”なのです。それゆえ、”祈祷会は、「教会の魂が目覚めるように」と祈る使命を与えられている…私共1人〜が遣わされて来る所”なのです。
続いて”9節”に目を転じます…これは”旧約聖書のダビデが書いた詩篇69篇23節の引用”です。「どうか、彼らの食卓が彼ら自身に罠となり、仲間には落とし穴となりますように」…少々どぎつい言葉です。
ここに、「彼らの食卓が…」とある事から大勢の食卓、おそらく結婚式等の祝いの席の事だろうと思います。”喜びと御馳走で身も心も満足している姿”です…また、”旧約聖書で食卓というのは、「礼拝」を指し示す言葉”です。”ユダヤ人達にとって盛大な儀式によって礼拝し、律法を守っているという誇りは、心に満足を与えるもの”でした。
しかし、ダビデも主イエスも同じ事を言いました。それは”自己満足に過ぎない”その”自己満足は、救われて神と出会い、神と共に歩く世界に至る事を阻む落とし穴になる”と言ったのでした。それは”宗教家達にとって、のど元に短刀を突きつけられるような厳しい言葉”だったのです。
エゼキエル37章1〜14節…「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨で一杯であった。主は私に、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。その時、主は私に言われた。
「人の子よ、これらの骨は生き返る事ができるか」私は答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。そこで、主は私に言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前達の中に霊を吹き込む。すると、お前達は生き返る…私は命じられたように預言した。私が預言していると音がした。
見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。私が見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主は私に言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。
主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」私は命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った…私が墓を開いて、お前達を墓から引き上げる時、わが民よ、お前達は私が主である事を知るようになる。また、私がお前達の中に霊を吹き込むと、お前達は生きる」とあります。
エゼキエルは、”枯れ骨のようになった、死んだ魂、深く眠った魂さえも、聖霊が注がれると生き返る…やがて。神の霊が注がれる時が来る”と預言したのです…キリストが十字架上で「全てが終わった」と言われて息をひきとられた時、地震が起きて墓が開いて、死者が甦ったとあるのは、この聖霊が注がれる時代が訪れた事を暗示する徴なのでした。
この”キリストが注いで下さる聖霊”が、私共の心に聖霊がおられるかどうか知る方法がございます。聖書は、”聖霊は私共に「キリストは私の救い主です」と告白させる霊”とあります。ですから”キリストを主と信ずる者なら、全ての者に、この聖霊が注がれている”のです。私共は、”聖霊による主の食卓である、礼拝と聖餐と祈りによって、枯れ骨の状態から甦らせて頂き、キリストの躰として神と共に生きていく”のです。