神の愛の迫り

ロ−マの信徒への手紙10章5〜13節
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  神の愛の迫り
   ロ−マの信徒への手紙10章5〜13節、2005.3/6

 この朝は、ロ−マの信徒への手紙10章の9〜10節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」を中心聖句として、”神の愛の迫り”について共に御言葉に聴いて参りたいと願っております。

 ここに「口でイエスは主であると公に言い表し…」とありますが、これは13節の「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と同じ事を言っているのです。聖書は、”名はその人の本質を現すもの”として捉えているからです。ですから、”「主イエスの名を呼ぶ」という事には、「その人が主イエスをどのような御方と信じているのか?」という信仰告白が問われている”のです。

 ヨハネによる福音書1章14〜18節には”キリストの本質”が記されています…「言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた……律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」…ここに”この世に来られた神の独り子、イエス・キリストの本質が記されている”のです。

 「主の名」というのは、「救い主」「神の言」「命の道」「命の水」「命のパン」「神は愛なり」などの、”キリストの本質を現す言葉”です…”キリストを現す御言葉を信じて、「あなたは私の愛の神です。あなたは私の救い主です」と口に出して祈り続ける時、人は心の奥底で必ず救いを経験する”のです…それは”神の約束”だからです。

 ”説教は、この世に、神の救いの世界が開かれた喜びを語る事”です。”福音にはグッドニュースという意味”があります。”救いの世界が、この世に生まれたというニュース”なのです。神の救いは、私達の日々の生活にも臨みます。神の救いは現実の生活の中で、”神の言である御言葉を、「神の語りかけ」として聴く事から始まり”ます。

”罪の直中で、また苦しみの直中で、聖書を通して聖霊の語りかけを聴く”のです…”モーセは40才の時、エジプトの王子でした。ある時、奴隷とされている同胞イスラエル人が虐待を受けているのを見て、自分の力で助け出そうとしてエジプト兵を殺してしまったのです。モーセは王の怒りを恐れて、ミディアンという荒野の地に逃げ出したのでした。80才になって権勢の一切を失った時、神か燃え尽きる事のない柴の炎の前にモーセを導き、「足から履き物を脱ぎなさい」と言い、神の御声を聴く座へと招きだしたのでした。

 そして、出エジプト3:9「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、私のもとに届いた」と言われ、更に12節で「私は必ずあなたと共にいる。この事こそ、私があなたを遣わすしるしである」と言われたのでした。「神が自分と共にいて、自分の為に戦って下さる」

”人はその苦しみの底で、この神と共にある平安を知る”のです…そして、そこで、”復活の主は、今、私達が置かれている全ての所に介入して下さる生ける神だと知る”のです。”キリストが慕わしい、私の救い主、赦し主、受容して下さる方、慰め主、導き手、癒し主なる主の救いを経験して行く”のです。

 確かに聖書には難解な所も多くあります。しかし、”御言葉が聖霊と神学によって説き明かされる時、そこに込められている恵みと喜びと慰めが分かってくる”のです。また律法的な御言葉もあります…私共も属する”聖め派”の教会は、しばしばそうした所を「〜ねばならない。〜すべきである」と説いて参りました。私も思い返して反省しています…しかし、どんな律法的な御言葉も、”神の愛の迫り”として聴く事が出来るのです。

 今朝お読みしたローマ書の10章9〜13節をお読みします…「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる…。人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる…。主の名を呼び求める者はだれでも救われる」とあります。下線部を力を込めて読みますと、「〜するなら救われる」…だから「救われる為に努力しなさい」と律法のように響いて参ります。

 しかし、”キリストは律法の終わりとなられた”のです。この”信じて救いに預かる”という事を、先週、”当選した現金を、現金為替で受け取る時の印鑑に譬え”ました。この”救いの条件”は律法ではなく、「神さま私は一方的な神の恵みを頂きます」という”信仰という受け取りの印鑑”なのです。
 ”キリストによって律法を守って救いに至る時代は終わり、律法は物差しになった”のです…”律法は

 神に喜ばれる姿から逸れてしまっている自分を測る物差し”です。そして、”聖霊による救いの時代が始まり”ました…”聖霊は私達の姿を律法という鏡によって示し、同時に、「それでも私は神に愛されている。神は私を大切な宝物として受け入れて下さっている」と教えて下さる”のです。

 甘い食べ物の隠し味に、塩を少し入れて甘さを際だたせるように、”律法は救いの恵みを、人に深く教える隠し味”となったのです。ですから、今、”律法は、聖霊によって罪深き者を受け入れて下さる、神の愛への信頼を呼び起こす言葉”なのです。

 ”イエス様ご自身も、救いの条件を語られ”ました。主イエスは「門を叩け、そうすれば救われる」「恐れるなただ信じなさい」「あなたの信仰があなたを救った」と語られたのです…”「信じる」事だけが、”神の救いを受け取る為の人間側の応答だから”です。

 マタイによる福音書の8章に”百人隊長の癒しの物語”があります。「部下が中風の病にかかって苦しんでいた時、その百人隊長が部下の癒しを求めてイエス様の前に出て行ったのです。その時主イエスは、私が行って癒してあげよう」と言われたのです。

すると、百人隊長は答えました。「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば私の僕はいやされます」…この言葉を聞かれたイエス様は感激されて、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、私はこれ程の信仰を見た事がない…行け、あなたの信じた通りになる様に」と主イエスは言われたのです。

そして”その時僕は癒された”のです。ここに”イエス様が私達に対しても、信仰を期待されている事が見えてくる”のです。

 人が信仰を強要したら律法です。しかし、聖霊が臨んで下さり、「主イエスが架かった、あの十字架はあなたの救いの為だったと信じて欲しい、あなたの救いの為に痛んだ愛だと受けとめて欲しい」と迫られたらどうでしょうか?…それは”愛の迫り”となるのです…そして私達の内に、「主イエスを信じたい。信頼したい」という”応答の愛が生まれて来る”のです。

 9節に「イエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とあります。主イエスは私共が「イエスは主である」と言い表す事が出来るように、”主イエスの方から近づいて下さるお方”なのです。

 復活された主イエスの行動にその姿がよく現れています…”主イエスを十字架で処刑した当局の手が自分達に及ぶのを恐れて、堅く戸締まりして隠れていた弟子達の部屋の中に、主は壁を突き抜けて入って来られて「平安があるように」と言われた”のです。

また”主イエスの復活を信じる事が出来ず生まれ故郷のエマオに帰ろうとしていた2人の弟子(夫婦?)の前に主が現れて、共に歩きながら、旧約聖書が預言してきた救い主が御自身の事であると説き明かされた”のでした。更に、”食卓でパンを裂き、十字架で裂かれた御自身を、その聖餐を通して示された”のでした。

 ”弟子達が先に信じて信仰を告白したのではなかった”のです…”弟子達がキリストを捨てて逃げ去った時、ひとり十字架に向かわれて死んで下さり、更に、人が降る事の出来ない黄泉まで降られて死の絶望を滅ぼし、神の力によって復活され、更に天に昇られた”のです。こうして”救いの道を開いて下さった”事が、”6〜8節に記されている”のです。

「心の中で『誰が天に上るか』と言ってはならない」これは、キリストを引き降ろす事にほかなりません。また、「『誰が底なしの淵に下るか』と言ってもならない」これは、キリストを死者の中から引き上げる事になります。では、何と言われているのだろうか。御言葉(神の言であるキリスト)はあなたの近くにあり…」

 このように、”キリストは人に出来ない救いの道を、お一人で開いて下さり、その救いを与えて下さる為に、「御言葉はあなたの近くにあり」というように御自分の方から近づいて下さっている”のです…私共が、”口で主の名を「イエス様、あなたは『私の救い主』『私の命の道』『私の命の水」』『私の命のパン』『私の愛の神』」と”キリストの名を呼び祈り求めるなら、そこで私共は神の救いを見る事が出来る”のです