新しい眼鏡で見るキリストの復活

ルカによる福音書24章5〜7節.イースター礼拝
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
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  新しい眼鏡で見るキリストの復活
  
ルカによる福音書24章5〜7節.イースター礼拝.2005年3月27日

 イースターおめでとうございます。この朝はキリスト教会最大の祝いの礼拝であります…二千年前キリストが死の壁を打ち破られて復活された事を記念する復活祭です。全世界のキリスト教会とキリスト教国は盛大にこの日を祝います。

 しばらくTVでは、ライブドアVSフジテレビの事でにぎわっていますが、ニュースの重さで言えば、本当は、”キリストが死を打ち破って復活した事こそが、イースターを迎える度毎にトップニュースになるべき事”だと思うのです。

 先週の礼拝時に、ゆらっとしたので振り返りましたら、皆さん何ともなかったような顔をしておられましたので、気のせいかと思い講壇に立ちました。でも気のせいではなく九州が震度6で揺れていた事を後で知りました。大地震は文字通り地面が揺れるので立っておれません。先週の地震でも、壊れた家は、一瞬家が宙に浮いたとの事でした。正に”キリストの復活も、私共の今迄の人生の歩み方が粉々に打ち砕かれて、全く新しい歩みを生み出すもの”なのです。

 ”キリストが復活された”という事は、信仰が無い人にとっては絵空事に聞こえるかも知れません。しかし、”キリストが十字架に架けられた事、そしてユダヤ人の議員のアリマタヤのヨセフの墓地に葬られた事、3日後に、その墓地が空になった事は歴史的事実”なのです…”クリスチャンは、キリストの空になった墓に、主イエスの復活を信じている者達”なのです。

 主イエスの復活を信じる事の出来ない、ある人は、”キリストの遺体を誰かが盗んだ”と考えます。しかし、マタイによる福音書27章62〜66節には「…明くる日、すなわち、準備の日の翌日(土曜日)、祭司長達とファリサイ派の人々は、ピラトの所に集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていた時、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、私達は思い出しました。ですから三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』等と民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされる事になります」ピラトは言った。「あなた達には番兵がいる筈だ。行って、しっかりと見張らせるがよい」と言ったとあります。

 ”主イエスが復活したという噂がたったら、ポンテオピラトにとって困った事態”となったのです…”イスラエルに混乱が生じると、ロ−マ当局が統治しにくくなり、ピラト自身が皇帝からの信頼と評価を失う”からでした。また、”ユダヤ人の宗教家達にとっても困った事態”でした…”救い主の到来を語って来た彼等が救い主を殺した事”になり、それは、”宗教家生命を失う事”となるからです。ですから、”この噂が立つ事だけは阻止しなければならない事だった”のでした。

 主イエスの復活を信じない人々の中には、”弟子達がキリストの遺体を盗み出した”と言う人々もおります…これが一番ありえそうな説です。しかし、”キリストが十字架に渡された時、自分達にも取り締まりが及ぶのを恐れて、キリストを裏切って逃げ出した弟子達が、その主を裏切ってしまったという失意のどん底から、そんなに早く立ち上がる事など出来るでしょうか?”

 更に言うなら、盗み出した遺体が、死臭を放ち白骨化するのを見ながら、”くじけずに殉教して迄、キリストの復活を叫び続ける事など出来たでしょうか?…命を惜しんだ者達が命をかける者に変えられるには、それなりの訳があった”と見るのが妥当ではないでしょうか? 

 また”仮死状態だったキリストが蘇生した”と言う人もおります。しかし、”キリストは十字架で息をひきとった”のです。しかも、”番兵が槍で心臓を突いた時、水と血が流れ出ました…それは止まった心臓の中の血が、血清と血糊に分離していた事を示している”のです。万一蘇生したとしましても、”十字架に架けられた主イエスが、入り口を封印してあった大きな石を転がす事など出来た筈がありません。その上、番兵もいた”のです。ですからこの説もはじかれます。

 そうしますと”残るは1つ”です…ルカ24:5〜6で御使いが、マグダラのマリヤとマリヤの前に現れて「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と言われた…”キリストが復活されたと言う説”です。

 ”このキリストの復活は、弟子達にとっても信じられない事だったと聖書は記すのです。ペテロとヨハネが、空っぽの墓を覗くと”亡骸を包んでいた亜麻布がくるんであった”のでした。原語では、”布を解かずに中身が通り抜けて、ぺちゃこに凹んでいる状態”なのだそうです。

しかし、”ペテロとヨハネはそれを見ても信じられなかった”のでした。しかし、”そんな弟子達の前に、復活の主は姿を顕された”のです。弟子達は「私達は復活の主を見た」と声を震わせ、目を見開き、興奮して体全体を使って話したのでしょう…しかし、トマスは信じる事が出来なかったのでした。

「その手に釘の跡を見、私の指を釘の所に差し入れ、また私の手を脇に差し入れてみなければ決して信じない」と言ったのです。”死というものを覆す事が出来ないのは、古今東西変わらない事実だから”です…”トマスという常識に固執した人物がいた事は、反対に”その常識破りの出来事が如何に衝撃だったか”を物語っているのです…”作り話しでなかった証拠”です。作り話しなら口裏を合わせたに違いないからです。

 しかし、”キリストには悲しい言葉として聞こえていた”に違いありません。その所に復活の主が現れて、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのでした。この時、トマスに信仰が生まれて、「私の主、私の神よ」とひれ伏して言ったのでした。

 ”信仰というのは、新しい眼鏡が与えられる事”とも言われます…”主イエスが復活された事が見えて来る。自分が罪によって死臭するものだと見えて来る。更に、キリストの十字架と共に死に、もう古き自分の葬式が済んでいる事、そして「神に生きる者」として復活している事も見えて来る”のです。

 <山川千秋氏の凱旋>…フジテレビのニュースキャスターだった、山川千秋氏が、突然、のどの癌の為亡くなりました。その時の事を、奥様は次のように述べています。「ガツンと頭をたたかれたように、突然、目の前がまっ暗になり、全身の力も抜けて、体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。

 病院から自宅までは、車で10分ほどなのですが、その日は一時間近くかかりました。どこをどう通ったのか、記憶はありませんでした。「家の中で、子供達に涙を見せる事はできませんでした。ですから、夜、家を抜け出してさまよいながら歩きながら考えました。所が考えれば考える程、残された子供と生きるよりも、「主人と一緒に死にたい…」、という事ばかりが頭に浮かぶので、家に戻り祈り続けました」…奥さんはクリスチャンだったのです。

 「すると、イエス・キリストの言葉が聞こえてきました。『私が、カを与えます』…その言葉に、私は決心したのです。2人の子供と共に生きて行く決心をしたのです」…その後、奥様は山川氏を訪ね癌の告知をしたのでした。ただ〜神の助けを祈りながら伝えたのだそうです。山川氏は55才。子供は中学生に小学生だったそうです。面会時間の終わり迄の2時間、涙だけが止めどもなく溢れて落ち、二人は重い沈黙の中に座ってたそうです。

 そして奥さんの教会のベック宣教師の訪問を受けた時、「先生、私には死の準備がありません。どうか私を救ってください」と言われたそうです。そして山川氏は、”イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命を信じ、病床で洗礼を受け”ました。

 便せんに子供と奥さん宛に次のような遺書があったそうです。子供さん宛の遺書を紹介します。「…お父さんは病に倒れたが、その事によって、主イエスを知った。それは素晴らしい事だと思わないか?父親を亡くした人生は、平坦ではないが、主イエスキリストに頼って生きれば素晴らしい人生が与えられる…また天国で会おうぜ…」奥様への手紙は時間の都合で省きます。これも感謝と励ましと愛に満ちた手紙でした。”山川千秋氏は新しい眼鏡を与えられた人”でした。

 この”新しい眼鏡が与えられた弟子達にも大逆転が起きた”のでした…”復活は、キリストが神の御子である、救い主である証拠、私に十字架の罪の赦しと永遠の命が与えられた証拠として見えてきた”のでした。そして復活の主を見た弟子達は変えられたのでした。また多くの人々は世界に散って殉教をもってキリストの復活を宣教したのです。それは”悲壮感や義務感ではなく喜びと感動の宣教”でした。

 ”キリストの復活は今も私達に、「その方は、ここにはおられない。よみがえられたのだ」という新しい信仰の眼鏡を与えて下さるのです…その信仰の眼鏡によって、罪や困難や挫折を1人で苦しんでいるのではない事が見えて来るのです。復活の主が共にいて下さる事が見えて来るのです。そして私共も苦しみの中で、甦りの命の力、人生の復活を体験出来るのです。そして、その事によって、世の終わりの復活をも仰ぎ臨みながら歩んで行けるのです。