十字架上の仲間

ルカによる福音書23章39−53節. 受難週
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、
23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
23:52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、
23:53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  十字架上の仲間
  
ルカによる福音書23章39−53節(39−43節). 受難週2005.3/20

 今朝お読みした所は「主イエスと出会う」という事はどういう事かを記している所です。私共はイエス様の事を、「イエス様とか主イエス」と呼んでおります。「主イエスと出会う」という経験をした人は、敬語を使って主の名を呼ぶようになります。何故なら「主イエスと出会う」という経験をした者は、そこで「神と出会う」経験をしているからです。

 この教会の前を通られる人が,教会の事を「キリストさん」とか、「キリスト」と呼んで行くのを聞きます。でも、それは間違っていないのです…「キリスト」は、「救い主」という「称号」なので、敬語を使う必要がないからです。

 「主イエスが復活された」という噂がたった時、弟子のトマスは信じる事ができませんでした。しかし、そんなトマスに対して姿を顕して下さった、主イエスを見たトマスは、「我が神、我が主よ」と呼んだのです。この事はとても大切な事を私共に語っているのです。

 それは、”主イエスとお会いする”という事は、”神にお会いする”という事だからです。ですから「我が神、我が主よ」とお呼びする事が出来ないなら、それは、”イエス様の側には居るけれど、まだ、主イエスとお会いできていない”と言えるのかも知れません。

 ”主イエスにお会いする”という事は、十字架抜きには考えられません…それゆえ”4つの福音書”全てが、”十字架と十字架にまつわる出来事を1/3以上費やして記している”のです。そして、この”主イエスの十字架と復活と昇天の後に、聖霊が降ってきて生まれた教会も、主イエスの事を「十字架につけられた主イエス」と呼んだ”のです。

 ”十字架は3本”たてられました…真ん中の主イエスの十字架を最も近くで見た人は、両脇の十字架に架けられた2人の囚人でした。3人は同じ十字架の痛みを味わっているという点では仲間でありました。

しかし、”この2人は、「主イエスをあざけった人、あざけらなかった人」という一線に於いて2つに分かれた”のでした。2人は共に十字架に架けられるという、これ以上にない近い所にいながら、”その内の1人は主イエスに出会えなかった”のです。

 ここで、2人の囚人の違いをもう少し深く見て参りたいと思います…1人は、「イエスを罵り、お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったのです。ここに「罵った」とあります。”「助けて下さい」と懇願したのではなく罵った”のでした。

おそらく、「あなたは自分の事を救い主、キリスト、メシアだと言って来たではないか?今まで沢山の病人を癒して来たではないか?死んだ人さえも甦らせた…ならば、何故、今、自分を救い、私を救う事がどうして出来ないのか?」という思いが怒りとなって沸いて来て、それが罵りになったのだろうと思います…この囚人は、主イエスの事を良く知っていたようです。

 もしかしたら、かつて主イエスの話を聞いたのかも知れません…しかし、”最後の最後に、この男から出て来たのは、罵りの言葉だった”のです。

 実は、この”主イエスに対する罵りの言葉は、決して他人事では無い”のです…この時、この囚人は、”深い深い絶望の中にいた”事を思うからです…しかし、「頼みの綱の、救い主と自称している男は隣の十字架で呻いている…一体、この男の何処に神を見たら良いのか?」という、”主イエスに対する失望があった”のでした。

 しばしば、私共も”苦しみを近視眼的に見つめてしまい、主イエスに失望したり、或いは心が主イエスから離れてしまう”のです…ですから、”主イエスの隣りの十字架の囚人の姿は、クリスチャンである私共にも、大きな意味をもって迫ってくる”のです。

 私共の中には聖書が記す神よりも、日本人的な神イメージが染みついている部分があるのかも知れません…「クリスチャンなのに、何故、こんな苦しみに遭うのだろうか?」という言葉をよく耳にしますが、それこそが、”日本人の神に対するイメージ”だと思います。”聖書は、主イエスが再臨なさる迄の世をサタンが支配している時代”と言っています…という事は、「クリスチャンであろうとなかろうと、皆、苦しみに遭う」という事を言っているのです。

 けれども、”人は弱さのゆえに、クリスチャンでも、悩みの中で、「イエス様、あなたは私を、どうして助けて下さらないのですか?」と失望し、怒り主イエスから離れてしまう事がある”のです。

 この”受難週、私共が共に見つめている事は、キリストが十字架の死に至る迄、私共を愛して下さった事”であります…なのに”自分は神を愛する事が出来ない、神の為に損をする生活が出来ない”、それだけでなく、”神を罵る弱ささえ自分の内にある事を見い出し”ます…ですから、”あの主イエスの隣りの囚人の心は決して人事では無い”のです。

 同じ十字架の痛みを味わっている隣人に捨てられ、そして私共にも捨てられる主イエスは、”
そんな私共の弱さや罪を背負って、神にも捨てられた”のでした…それゆえ”十字架の上で、「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのですか?」と絶望の叫びをあげられた”のでした。

 これは、”誰1人として味わった事の無い絶望”だったのです…”私共の全ての罪を背負い身代わりに神に審かれ捨てられた絶望だった”からです…この”絶望こそ、神の審きにあう時の人間の絶望”なのでした…”キリストが無力なお姿で十字架に留まって下さったのは、それを身代わりに味わい尽くし、そこから解放して下さる為”だったのでした。

 ”人間は十字架で神に審かれたキリストほど、自分が罪人である恐ろしさを知らない”のです…だから、”このキリストに感謝して神の為に生きる”とか、”損をしても神の為に生きる人生を受け入れる事が出来ない”のです。

 しかし、この”十字架の出来事の中にも1つの救い”がありました。ルカ23:40-41「主イエスの十字架の隣りで主イエスを罵った囚人でない方の囚人は、すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやった事の報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪い事をしていない」…”主イエスは罪が無いのに、無力に撤して十字架に架かり続けておられる事に、この囚人は気づいた”のです。

 その時、”主イエスの十字架の姿が、失望する姿として映ったのではなく、囚人である自分を死の絶望から解き放つ為に、救い主として、神の審きを身代わりに受けて下さっている姿として見えてきた”のでした。

 ”聖霊なる神は、キリストの十字架と共におられ、神の罪への怒りを味わい、神の審きと、神に捨てられる恐ろしさを知っている唯1人のお方”なのです。ですから、この”聖霊だけが私共に罪を教える”事が出来るのです…”残酷な十字架こそ神の愛であると教えて下さる”のです。

 ”この囚人は、この事を聖霊に教えて頂いた最初の人だった”のでした。そして、この囚人は、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と言ったのです。口語訳では、「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」となっています。

 こちらの方が”原文に近い”と言われます。この口語訳には”主イエスというお方は死に支配されているお方ではなく、神の国の神の愛と力の支配をもって臨んできて下さるお方”だと言うニュアンスガあるから”です…この囚人はそれを信じたのです。

 聖書は”天国”を、”神の国”と言います…”神の国は神が力と愛で支配される世界”なのです…”私共は、主イエスの十字架によって神の国に入る事が約束されている”のです。また、そして、今、”聖霊が私共の心に来て下さる事によって、その聖霊の御臨在と平安によって、やがて行く神の国(神の愛と力による支配)を垣間見る事(先取り)が出来る”のです…そこで人は、この世で損得を超えて、天国に宝を積む人生を生きる者と変えられるのです。

 ”聖霊によって、この片側の囚人はキリストに出会った”のでした。この囚人を、そして私共を、”神の国に導く為に、主イエスは弱さに撤して十字架に留まり続けて下さった”のでした…そして「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです…この主イエスを、この受難週、共に見上げ、主イエスと本当の出会いをしたい”と思います。そして、「私はあなた(自分の名)に楽園を約束する」と言う主イエスの御声を聴く者達となりたい”と思います。