「キリストの言葉を聴く事によって始まる信仰」
ロ−マの信徒への手紙10章14〜21節
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
10:20 イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「キリストの言葉を聴く事によって始まる信仰」
ロ−マの信徒への手紙10章14〜21節・2005.3/13
今朝はロ−マの信徒への手紙10章17節の「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」から、共に「キリストの言葉を聴く事によって始まる信仰」という事を聴いて参りたいと願っています。
ここに「不従順で反抗する民」という言葉があります。イスラエルは神の民として神に選ばれていながら、神に対して心を鎖国のように閉ざしていたのです。そんな神の民に対して、パウロは、モーセとイザヤという旧約聖書を代表する二人の人物の言葉を引用して、「神が回り道を決意された」と言ったのです。
19節は申命記32章21節のモーセの言葉の引用です…申命記32章21節「私は民ならぬ者をもって、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国をもって、彼らの怒りを燃えたたせる」。
また20節は預言者イザヤの言葉の引用です。イザヤ65章1節「私に尋ねようとしない者にも、私は尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる」。
この2つの箇所が言っている事は、”神は神の民の頑なさの為に回り道を決意された”という事であります…神がとられた方法は、”神を知らず、神を求めていなかった異邦人を先に救い、ユダヤ人に妬みを起こさせるという方法”でありました。しかし、これは、”神の思いやり”でもあったのです。
”神の民ユダヤ人は、神の御子イエスを頑なに拒んで殺しただけでなく、その十字架によって開かれた、救いの道を告げる知らせる福音さえも受け入れなかった”のです。そんなユダヤ人に対して、神が怒りを降さなかったのは、正に”神だけが出来る愛のゆえ”でした。
そして神は、ただ1つ残っていた”遠回りの道”を選択されたのです…それは、”ユダヤ人に妬みを起こす”という道でありました。神の民としての命を失いながらも、残っている選民という強烈なエリート意識を利用して、”妬ませて神に立ち帰らせる”という道でした。しかし、それは、”世の終わりにならなければ成就しない、とてつもない遠回りの道だった”のです。
この様に見て参りますと、”神の民として選ばれる”という恵みには、”福音の宣教”という”大きな使命と責任が託されている”という事を思います。これは”新しい神の民であるクリスチャンにも言える事”なのです…”クリスチャンが福音を携えて出て行かなかったら、キリストが十字架で開かれた、救いの福音を無にする事になるから”です。
それでは”福音を伝える原動力”とは何でしょうか?…それは、”信仰によって神から与えられる聖霊の臨在”です。”聖霊は、救われて、神に受け入れられている(神の義を頂いている)事を、平安と心の満たしをもって教えて下さるから”です…世の荒波に揉まれても失われない、”心の底に与えられる聖霊の臨在による平安”こそが、”福音を伝えていく力の源”なのです。
そして、”この福音を伝えていく力の源を得る道の事が、14〜15節に記されているのです…「所で、信じた事のない方を、どうして呼び求められよう。聞いた事のない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞く事ができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝える事ができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しい事か』と書いてある通りです」とあります。
ここは結果から順番を逆に書いている所です…「神から遣わされた伝える者がいなければ、どうして聴く事が出来よう?聴く事が出来なければ、どうして信じられよう?信じる事が出来なければどうして主の名を呼ぶ事が出来るだろうか?」という事なのです。
ここに、”聴く事無しに信仰はあり得ない”と言う事が書いてあります…ですから、”聴く”と言う事はとても〜大切な事なのです。しかし現代は聴く事が苦手な時代なようです。TVで15分間隔のCMに慣れているせいでしょうか?子供の集中力が15分になっているのだそうです。前任地では、小学校で20分ごとに科目を変える試みを始める所でした。授業中の私語や、立って歩く学級崩壊は珍しい事でなくなりました。
そして聴く事が出来なくなったのは子供だけではないのです。土居の地に転任してきたばかりの頃に驚いたのは、授業参観の時、後ろや廊下で父兄が授業の妨げになるような大きな声で世間話をしている事でした。注意したいのをぐっと堪えたのを思い出します。「聴く事が出来ないこの時代に、福音を聴こうと教会に求道者が集まらないのも当然だなあ」と思いました。
信じるには、先ず”聴く事が大切”なのです…その為には”神から遣わされた人の言葉を聴く必要がある”のです。
ヨハネによる福音書3章34〜36節に、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手に全てを委ねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命に預かる事がないばかりか、神の怒りがその上に留まる」とあります…ここで言っている事は、”神から遣わされた方の言葉を聴く事こそ、「キリストの言葉を聴く」という事”なのです。
”言葉を聴きますと返事が生まれ”ます…この”神を起源としている、神から出ている言葉を聴く”時、”信仰が与えられる”のです。そして、先週学んだ「主の名を呼ぶ」という事は、この”神から使わされたキリストの言葉を聴いて「救いをお受けします」「救いを下さい」という返事”なのです。
この、”神の言を聴く事無し”には、”福音を伝える力が与えられない”のです。”神の言を聴かずに生かされずに伝道しても、福音を聴いた人々の心は動きませんし、伝道する私達自身の奉仕も疲れて重荷となる”のです。
家内と犬と共に、散歩に河川敷に行きました…私は途中で別れましたが、犬が走り回っている姿を見たくなって後を追いました。余りの可愛さに遠くから近づいて行き、遠くにいる犬の名を呼んだ時、ハッとして耳を立て、こちらに気づいて一目散に走って来たのです。あの全力で駆け寄ってくるシーンを忘れる事が出来ません。「ああ神の御声を聴くというのは、こういう事なんだなあ」と思わされたシーンでした。
”神に立ち帰って、神の細き御声を聴くという神との交わりには、牧師も信徒も関係ありません”…”全ての神の民にとって”、隠れた所で、”神の言を聴いて神と交わる”と言う事は、”信仰の命の源”なのです。そして、この事は、”誰も代わってあげる事は出来ない”のです。
神から離れてしまう時には、いろんな理由がある筈です。同情はできますが、かと言って、”誰もその人の代わりに神の言を聴き、神と交わる事は出来ない”のです…ですから、”教会と聖霊は、背後で、「その人が、神の御前に座して、神の言を聴けますように」と執り成し祈り支える”のです。
日々のニュースの殆どは暗いものばかりです。人事のように心を半分閉ざして聞かなければ、どうにかなってしまう程、私達が生きている世界は暗黒に支配されています。そして、世の人々は、その暗黒に呻きながら、”何処で神の言を聴いたら良いかさえ分からずに滅びに向かっている”のです。私達も、同じ、”世の荒波に苦しむ者”です。しかし、そこで”神に近い者とされているクリスチャンは、神の言に聴く事が出来る”のです。
そして、この”神の言を聴き、信仰が与えられ、生かされて行く、その私達の姿こそが、世の人々が聴く事の出来る、神の言”なのです。
だからと言って、”強く立派なクリスチャンになろうと気負う必要は全くない”のです…”あるままの姿で、呻くようなその所で、神の言を聴けば良い”のです…そして、そこで、”ローマ10:11「主を信じる者は、誰も失望する事がない」という御言葉の真実を経験するのです。
それは申命記33章27節が成就する経験でもあります…申命記33章27節「とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある」という”神の御手を経験する”事です…”私達が危機の中で、キリストの言葉に聴き、キリストも名を呼び求める”ならば、この”神の永遠の腕の支え”を知る事ができるのです。
”神は、神の言に生かされているクリスチャンを、その姿を神の言として世に遣わされる”のです。それゆえ、”神の言を聴いて人々に携え行く者を、ロマ書10章15節で「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と表現する”のです…実は私達が生活の中で、”ダイナミックな神の御業”を見る世界こそが、この”福音を宣教する場”なのです。そこで”生ける神を体験した者は、様々な場面でも、神の言を聴いて信仰に生きる事が出来る”のです。
そして世の人々は、”そんな神の言に生かされるクリスチャンの姿に、「救いの世界が訪れた」という神の言を見出して行く”のです。