「怒りの器から憐れみの器へ」
ロ−マの信徒への手紙9章19〜29節
9:19 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
9:24 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
9:25 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、/愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
9:26 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
9:27 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
9:28 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
9:29 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、/わたしたちはソドムのようになり、/ゴモラのようにされたであろう。」
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「怒りの器から憐れみの器へ」
ロ−マの信徒への手紙9章19〜29節.2005年2/6
今朝は、ローマ書の9章19〜29節の所から、共に「私達は、神より怒りを受ける器から、神の憐れみの器とされる」という事を学んで参ります。
今朝の箇所は、いきなり神に対して、開き直って文句を言う所からはじまる面白い所です。先週学びました18節「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」を受けての言葉です。
「神が人の心を強情にされるのに、何故、人が神に責められなければならないのですか?」と言ったのでした。これはキリスト教最初の伝道者のパウロが、”ユダヤ人達の思いを代弁した言葉”です。
我が家ではしばしば血液型の事が話題にのぼります…科学的根拠はないのですが、A型は同調的で几帳面、B型は自由奔放のマイウェイでユニークな性格と言われます。私はB型ですので、A型の家内から「だからあなたはB型なのよ」と叱られます。
また会話においても、B型の人は人の話を聞かずに自分が話したい事を話すチャンスを伺っている事が多く、B型同士の会話ですと、自分の言いたい事をお互いに言ってるだけという事も聞きました。しかし説教となりますと牧師が1人で語るものですから、パウロのように、聖霊の助けを祈り求めつつ皆さんの思いを汲み取りながらお話し出来なければならないと思います。
先週、イスカリオテのユダの話しをしました…”12弟子の1人として選ばれながら、主イエスを裏切り自殺した人”でした。主イエスに「生まれない方が、その者の為に良かった」と迄言われた唯一の人物です。
しかし、このユダの事を思いますと、「神が頑なにされたいと思う者を頑なにされるなら、このユダも、心を神にかたくなにされ、キリストを銀貨30枚で売り渡す裏切り役として選ばれたのではないか?…なのに神に責められるのはかわいそうだ」と多くの方が思うのではないでしょうか?
ある意味、”救い主キリストを捨てた、ユダヤ人全体が救い主キリストを裏切ったイスカリオテのユダ”とも言えるのです。
それは”パウロにとって余りに大きな痛み”でありました…おそらく「神が人の心を強情にされるのに、何故、人が神に責められなければならないのですか?」というユダヤ人の気持ちを代弁した言葉は、”パウロ自身が祈りの中で、「神の民ユダヤ人に対して預言されていた救い主を、何故ユダヤ人は受け入れないのですか?あなたがユダヤ人を強情にされてたのではないですか?」と葛藤しつつ祈った言葉”だったのだと思います。
しかしパウロは続いて、「どんな理由があるにせよ、神に逆らう者は、一体自分を何様だと思っているのだろうか?」と言ったのです…問答無用の言葉です。
これは祈りの中で、神の言を聴いて語った言葉だと思います。ヨブ記と同じ事を言っているからです。
旧約聖書にヨブ記があります。人類の永遠のテーマである「何故、人生に苦難があるのか?」を扱った書です。神の御前で非の打ち所なく生きていたヨブでしたが、ある時、人生の苦難を全て背負ってしまいました。初めの内は信仰によって受けとめていましが、苦悩が長く〜続く中、親友や奥さん迄に、「何か罪を犯したんじゃないの?」とか「神を呪いなさい」と言われ、さすがのヨブも孤独の中で「神様どうして?」と呻くようになったのでした。
パウロもヨブと同じように、同胞ユダヤ人の為に「神様どうして?」と呻き続けたのでした…そして”聖霊によって、ヨブ記の40章以降で神がヨブに言われた事と同じ事を心に示された”のです。それが次の言葉です…20節「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか?」
ヨブは次のように答えました…「私は真に卑しい者です。何とあなたに答えましょうか?ただ口に手を当てる者です」…言い換えますと、「全知全能なる神さま。あなたの知恵と比べて自分は余りにも浅はかで無知な者です。なのに、『神さまどうして?』と、たてつき続けてきて申し訳ありませんでした。これから口に蓋をします」と言う事です。
更にヨブ記42章5−6節で「あなたの事を、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し自分を退け悔い改めます」と言うのです。これは”先の悔い改めに続く3度目の悔い改め”だったのです。
”3は完全数”ですから、あのヨブでさえ、”神を信頼しつつも、「神様どうして?」と思い悔い改め続け尽くした”という事になります。しかし、”この悔い改めこそ心底からのもの”でした…”神を仰ぎ見る者と変えられたから”でした。ヨブは悔い改めによって、”ただ神を崇め、神のなさる事を受け入れた”のでした。
これは”苦難の問題だけではありません…神の作品である自分を受け入れる”という事についても言えるのです…「自分がもう少し、あーだったら、こうだったら」と思った事は誰しもあると思います。23節に「怒りの器として滅びる事になっていた者達」とあります…”怒りの器”という言葉には、”神の怒りを受ける者”という意味があります。
しかし、もう1つ意味があるのです…”私達の心が怒りを貯める器”であるという意味です。”心という器の中に、苦難を許された神への怒りや、自分をこんなふうに創られた神への不満が溜まっている”のです…しかし、”そのままではヨブやパウロのように神と出会う事は出来ない”のです。私の23年の信仰生活も、”神がなされた事や、神の作品である自分自身を受け入れる事”を失敗しつつ学び続けた日々でした。
パウロは21節で、次のように語りました…「焼き物師は同じ粘土から、一つを貴い事に用いる器に、一つを貴くない事に用いる器に造る権限があるのではないか」と…。
続く22〜23節を新改訳でお読みします。「ですが、もし神が、怒りを示して、ご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか?」。
新改訳聖書ですと初めに、「ですが」と書いてあるのです…「ですが神は…滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容(十字架の赦し)をもって忍耐してくださった」と言うのです。とすれば、あのイスカリオテのユダに対して言った「あなたは生まれて来ない方が幸いだった」という言葉も、”その罪を十字架で自分が負う覚悟をしながら、究極の言葉をもって”「私の憐れみに立ち帰りなさい」と切々と促していた言葉だった”と見えて参ります。
ここに1つの焼き物があります。丸く欠けたお茶椀です。実は、これは我が家のイヌが赤ちゃんの時にかじったお茶椀です。我が家のイヌの実家は、御夫婦で焼き物をするのが趣味で、センスの良い焼き物が沢山飾ってあります。
ある時、焼こうと思っていた土の器の1つが欠けていたのだそうです。生まれたばかりのイヌの赤ちゃんが歯のない口でかじった跡でした。土の器は欠陥品になってしまいました。でも思い出になるだろうと思って焼かれたのでしょう…焼き上がった器は、”子犬の頃の大切な思い出の品(宝物)となった”のでした。この器をプレゼントして頂いた時に、その子犬への思い(愛)が伝わってきました。
もし、この器から「どうして、こんな器に自分を造ったの?」と言われたらどうでしょう?…”思い(愛)がこもっているゆえに、捨てられずに焼いた作者には辛く悲しい言葉として響く”と思うのです。
それは”私達の作者である神さまにも言える事”なのです…”欠けている作品を捨てられない所にこそ、神さまの愛が現れている”のです…”人が自分は世界でたった1つの尊い作品として神に愛されていると信じる時に、心に神の憐れみが満ちてきて、神の憐れみが心に溜まってくる”のです…”神が自分を審く為に力を用いず、十字架ゆえに自分を忍耐し赦す事に力を用いて下さっていると信じる人は神の憐れみの愛が溜まってくる”のです。
最後の最後にヨブは、心砕かれて、心底悔い改めて、「自分の理解を遙かに超えた御計画をもって導いて下さる神を受け入れた」のでした。そしてその時、ヨブは、”神を見る事が出来た”のでした…”神の憐れみを心一杯受けて生きる、憐れみの器へと変えられた”のでした。
”信仰に立ち帰り、家族の中で、会社で、学校で、憐れみの器として生き切る事がどんなに大切か”を思わされます…苦難さえも含んで、私達の人生を計画されている神を、無条件で受け入れる時、”ローマ9章26節に「『あなた達は、私の民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」とあるように、”神に「私の子よ」と言って頂いている事が分かる”のです。
それは”自分を神の作品として受け入れる事も同じでした…その時、私達は、この神の憐れみを心一杯に満たす器(憐れみの器)として神に生かされて行く”のです…。