「神から差し込む暖かな光」
ロ−マの信徒への手紙10章4節
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
ガラテヤの信徒への手紙5章4〜6節
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
ガラテヤ5章13〜14節
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「神から差し込む暖かな光」
ロ−マの信徒への手紙10章4節(U)、ガラテヤ5章4〜6節、13〜14節、2005.2/27
先日春一番が吹き春がそこまでやって来ました。花粉症の季節と思いますと気が滅入りますが、暖かな光が戻って来る季節だと思いますとウキウキして参ります。
今朝、共に学びますローマ書10章4節「キリストは律法の目標であります」は、口語訳聖書では、「キリストは律法の終わり」と訳されていた言葉でした。実は、この御言葉は、原語のギリシャ語ではどちらにも訳す事が出来るからです。「キリストは律法の終わり」というのは、神から暖かな光が差し込んできた事を物語る御言葉なのです。
キリストによって福音が完成する迄、”天国への道は「〜してはならない」という律法を守る道”しかありませんでした…それは律法に縛られる日々でありました。律法を守りきれない人々にとっては「自分は天国に行けないのではないか?」と恐れる日々だったのです…実はこの4節は「そんな日々が遂に終わった」という”喜びの宣言”であったのです。
口語訳の「キリストは律法の終わり」という訳のルーツは、宗教改革者ルターが訳した聖書です。それまでカトリック教会は、「人は神の恵みと共に、善い行いを積む事によって救われる」と説いていました。感覚的には日本人に理解しやすい教えかも知れません。しかし、”新約聖書が語っている救い”はそうでないのです。
”人の救いは一方的な神の恵みによる”という真理を聖書から発見したルターは、16世紀にカトリック教会に対して、宗教改革を起こしてプロテスタント教会が生まれたのでした。ですから”4節を「キリストは律法の終わり」と訳す事は、「キリストによって行いによって救われる時代が終わった」とする、プロテスタント教会にとって生命線となる訳だった”のです。
”もう一人の宗教改革者であるカルヴァン”は、この4節を「キリストは律法の完成」と訳したのでしたこの御言葉には、「終わり、目標、完成」…どの意味もあるのです…目標に達したら完成です。”完成したら終わりになる”からです。正に、ここに”新約聖書を記したギリシャ語の豊かさが如実に現れている”のです。
”キリスト唯一人が、目標である律法を完全に守った者として神に受け入れられた”のです。罪一つ無い生涯、愛と献身の十字架、復活により、罪の結果としての死がなくなった事を証明されたのです。こうして誰も到達出来なかった天国への道を完成して切り開いて下さったのでした(律法の完成)。こうして”キリストは、律法を守る事によって救いを得る時代の終わり”(律法の終わり)となられたのでした。そして、完成された救いを与えて下さる方となられたのでした。
しかし、そうであれば、新しい訳である”新共同訳聖書で、「キリストは律法の目標」と訳しました”のは、宗教改革以前に逆戻りしたという事なのでしょうか?…そうではありません。此処で言っている”律法”と言うのは、”モーセ”がシナイ山で神から与えられた”十戒”の事です。それ以後、律法は人によって付け加えられ膨れ上がって人々をがんじがらめに縛るようになったのでした。
その”十戒”には、「父母を敬え」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「殺してはならない」等の戒めがあります…”十戒が天国に行く為に守るものでなくなったとしても、これらの戒めは世間の常識であり人の道”です。だとしたら「キリスト者は証として十戒を大事にしなさい」という事なのでしょうか?…そうではないのです。ではこの”十戒は今、私達にとってどんな意味を持っている”のでしょうか?
”キリストが律法を完成して下さって、律法の時代が終わった時、確かに律法は天国に至る手段ではなくなりました…人は信仰によってのみ救われる時代となった”のです。しかし、だからと言って”律法である十戒はもう要らないという事ではない”のです…それどころか”律法はむしろ大事にされるようになってきた”のです。近年、礼拝において十戒を唱えるプロテスタント教会が増えて来た事がそれを物語っています。
何故でしょうか?…それは、”十戒に新しい意味が与えられたから”です…”十戒に新しく与えられた意味は、”目標”です…このように”十戒は目標から逸れている自分を知る物差しとなった”のです。
聖書は,”十戒を全う出来たのはイエス様ただお1人”と語ります…先週の祈祷会でT姉が、「新聖歌429番の地の塵に等しかりは私の証しです」と凛として言われました。T姉はキリストの品性が人格に根をおろされている方です。その様な方だからこそ、「御言葉の前に心砕かれて、目標から逸れた自分に気づき、絶えず悔い改めて神の御許に留まっておられるのだろう」と思いました…”十戒は、「こんな自分が神の一方的な憐れみで救われているのだなあ」と、”神の恵みに人の心を開かせて悔い改めへと誘う道となった”のです。
”クリスチャンは神の一方的な憐れみによって救われた者達”です。そして、”救われて新しく生まれ変わった者は、心の中にキリストの御霊を宿す者となる”のです…”クリスチャンの心の中には、律法を全うして神に喜ばれた、神の喜びを知るキリストがいる”のです。だから”クリスチャンは、神とキリストに喜んで頂きたい者と変えられている”のです。
ガラテヤの信徒への手紙5章4〜6節に、「律法によって義とされようとするなら、あなた方は誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ頂いた恵みも失います。私達は…“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とあります。
イエス様も、「神の律法は2つの戒めに集約される」と言われました…「神を愛する」事と、「自分を愛するように隣人を愛する」という2つの事です。
ローマ13章10節には、「愛は律法を全うするものです」とあります。”キリストに結ばれた者の心には、聖霊により愛が生まれる”のです。だからキリストは、「愛しなさい」と言われたのでした。そして”聖霊による愛は、愛によって律法を全うする者へと変える”のです…”「〜しなければならない。〜であるべきである」という律法から解放され、愛の自由な思いから「〜したい」という思いが与えられていく”のです。
今、多くの方々とカウンセリングセミナーで、セルフイメージ(自分を知り乗り越える)を学んでおります。”人は幼い頃に受けた満たされない思いや、心の傷、そして人生に於いて受けたマイナスの言葉に心を支配され”ているというのです。
そして、その”心の傷は、自分の意志でコントロール出来ない無意識の底まで潜り込んで行き、人の意識の90%を占める無意識を支配して行く”のです。そして、”その事が人生に悪循環を生んで行く”のです。”ですから”人は悪循環を断ち切る転機が無いと、一生マイナスの言葉に支配される”という事を先週学びました。
しかし、こうして”学んで知る事が一歩”なのですが、直ぐに自分を変えられるかと言いますと”出来ない”のです。「分かった。でも出来ない」…これは”律法を守る事に於いても同じ”でした。「隣人を許そう、愛そう、自分を受け入れよう」と思っても出来ないのです。しかし、”神が与えて下さる救いや聖めは、私達の真の転機となる”のです。
このような学びで自分を知り、更に、”聖霊によって祈り、より深く〜自分の真の姿を教えられ、聖霊が過去の自分の悪循環を生んでいる、罪や、自分を傷つけたマイナスの言葉を断ち切って下さる”のです。
そうして、”聖霊がお語り下さる御言葉によって、赦され癒された心に愛が生まれて来る”のです。次回のセミナーでは、”自分を支配しているマイナスの言葉を解除する事”を学んで参ります。しかし、そこでこそ、”知的な学びで終わる事なく、一人〜が神の御前に立ち、御言葉と共に、聖霊は如何に力をもって自分の心に臨んで下さる御方である事を体験して頂きたい”のです。
人が”心の中で、キリストに神の言を語って頂く時、主イエスの愛に溶かされ、律法から解放されて愛に生きる自由を学ぶ”のです。ガラテヤ5章13〜14節に「兄弟達、あなたがたは、自由を得る為に召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」とあります。
”信仰によって一方的な憐れみで救われた者の心には、神から差し込む小さな暖かな愛の光が灯ります…聖霊はその愛の灯火を、少しずつ〜大きな炎として下さるのです…そして私達は、”律法を全うする暖かな愛に生きるクリスチャンへと変えられて行く”のです。