誤った知識と正しい知識による熱意

ロ−マの信徒への手紙10章1〜10節
10:1 兄弟たち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  誤った知識と正しい知識による熱意

ロ−マの信徒への手紙10章1〜10節(T).2005年2月20日
 今朝からロ−マの信徒への手紙の10章に入ります。この10章は救いという事を見事に言い表しているとても重要な所です。何回か学んで参りたいと考えておりますが、今朝は、2〜3節を中心に、「神の救い(神の義)を受ける事が出来るかどうかを左右する、誤った知識による熱意と、正しい知識による熱意」という事について学んで参ります。

 この箇所を読んで先ず気づく事は、”使徒パウロの祈りから始まっている”事です。1節「兄弟達、私は彼らが救われる事を心から願い、彼らの為に神に祈っています」…この祈りは、原文では心をぶつける激しい言葉で書かれているそうです。文体として整っていないので日本語に訳するのに苦労したと言われます。ある学者は、原文は「私の願いは彼等が救われる事であるが…」となっており、この「が…」の所に”パウロのため息と嘆きがこもっている”と言います。

 パウロにとって血を分けたユダヤ人への伝道が暗礁に乗り上げた事は大きな嘆きでした。もしかするとパウロの家族も福音を拒否したのかもしれません。私達の中にも、家族の救いの為に、嘆きつつ祈った経験をお持ちの方がおられると思います。パウロもそんな嘆きの中で、この祈りを祈っていたのでした。

 何故、パウロの嘆きの祈りは聴かれなかったのでしょうか?…それはユダヤ人が、神に神の民として選ばれていながら、”救いの条件を満たしていなかったから”でした…「えっ、救いというのは無条件で与えられるものではなかったの?」と思われるかも知れません。勿論そうです。ただ現金書留を頂く為に印鑑が必要なように、”神の救い(神の義)”を受け取る為にも、人間側に、”信仰”という印鑑が必要なのです。

 私共の教会では受洗志願者に役員会で試問会を行います。10年程前まで、洗礼は熱心な求道者に教会の入学式の様な感覚で与えられてきました。知識は洗礼後に学べば良いと言われていたのです。しかし、そのように洗礼前の準備会を軽んじた結果、教会に様々な弊害が生まれて参りました。 

 2〜3節に、”誤った知識に基づく熱心の弊害”が記されています。「私は彼らが熱心に神に仕えている事を証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」。

 ここに記されているように、”正しい知識に基づかない熱心は、救い(神の義)が上から与えられないので、自力で自分の義を求めていく”事になるというのです…それを”自力の信仰”と言います。”人は自力で救われる事は出来ない”のです。私が牧師になって最初にお導きした方も、熱心な方でしたが、少し異端がかった教会へと移られて行ったと伺いました…ですから、このパウロの痛みは私の痛みでもあるのです。

 ”自分は何を信じて、神から救われたのか?神の義…神から罪無き者として受け入れられたのか?に対する正しい知識”がありませんと、”世の荒波に翻弄された時に、メッキが剥がれてしまうのです…不安や恐れという感情によって、簡単にイエス様から目が逸れてしまう”のです。”「あの時、神に救いを与えられた」という所がハッキリしていないと立ち帰る所が分からない”のです…それは,その人にとって不幸な事だと思います。

 もう1つは、”信仰がいつまで経っても個人主義のまま”という事です…”主イエスを信じて救われるという事は、ノアの箱舟に乗り込む”事です…”そこ迄は個人的経験”ですが、その後は”箱舟に乗り続ける事によって救われ続ける”のです…この”ノアの箱舟が教会”なのです。また”教会はキリストの躰”とも言われます…躰は気に入らないからといって切り離す事は出来ません。”キリストの躰は、共に痛み、共に喜び、祈りあい赦しあう共同体”なのです。

 ”キリストの躰に留まり続け、信仰と祈りによって乗り越える中で、人の信仰は成長して本物になる”のです。ですから、”救いの決心は個人的経験でも、救いは教会という共同体につながる事によって継続する”のです。しかし、この事を知らないクリスチャンが多いのです。こうした中で”教会は洗礼準備会を重んじるようになって来た”のです。

 パウロはピリピ書の3章で、自分の過去を振り返り”誤った熱心”を反省しています…「自分は熱心の点では教会の迫害者であった」と。”パウロ自身、過去に於いて神への誤った熱心ゆえ大きな間違いを犯した1人だった”のでした。

しかし、使徒言行録の9章に於いて、パウロが教会を迫害しに行く途中、ダマスコの地で、突然光を浴びて倒され復活されたキリストの御声を聴いたのでした。「サウロ〜、何故、私を迫害するのか?」…その時、”パウロはキリストは復活された神の子、救い主だと分かり、教会を迫害する事はキリストを迫害する事だと悟った”のでした。

 そして、それは”ユダヤ人にも言える事”でした…”キリストを十字架に架けて殺したのは、無神論者ではなく、神を熱心に信じていた人々だった”のです。こうして学んで参りますと、これはクリスチャンにも言える事だと分かって参ります…”教会やクリスチャンも誤った知識で熱心になるなら、信仰が逸れてキリストを悲しめる結果となる”のです。

 8〜9節に「『…御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』これは、私達が宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」…”御言葉が指し示している救い主は、あなたが体験し、あなたの言葉で証し出来る救いを与えて下さる”というのです。

 ここには「イエスは主である」という事と、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」という2つの事が記されています。そして、この”2つの事を「口と心」の2つで告白するなら救われる”と言うのです。

”口先三寸という言葉や、2枚舌、本音と建て前”という言葉があります。それらは、”口と心が違うと言う事を言い表している言葉”です。しかし、”告白”はそうではありません。何故なら、”告白”には、”同一”という意味があるからです…”心に思っている事と口から出て来る言葉が同じであるものが告白”なのです。

 ”口と心が同じである事が告白であるように、告白する内容である「イエスは主である」という事と、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」という2つの事は同じ事”なのです。何故ならば、「イエスは主(救い主)」と信じながら「イエスは復活の主」と信じないという事はあり得ないから”です。ですから、”どんなに熱心な人であっても、この正しい知識に基づく信仰に至っていないならば、洗礼に預かるのは時期尚早”なのです。
 
 何故、”イエスが主(救い主)であると信じる事が、イエス様は復活されたと信じる事と同じ”なのでしょうか?

 後日、また詳しく学びますが、6〜7節に「しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『誰が天に上るか』と言ってはならない」これは、キリストを引き降ろす事に他なりません。また、「『誰が底なしの淵に下るか』と言ってもならない」これは、キリストを死者の中から引き上げる事になります」。

当時、”この2つの事はありえない事の代名詞だった”のだそうです…”天に昇れる人などあり得ません。また地の底に降る事の出来る人もあり得ません…しかし、キリストだけは、天から降ってこられ、更に地の底に降られ、復活されて、更に天まで昇られた”のです。

”主イエスだけが私達に救い(神の義)を与えて下さる為に、私達の行く事の出来ない所へ行って下さった…即ち、復活して救いを開いて下さった救い主だからです。人の熱心ではない、神の熱心が私達を救い、神の義を与えて下さる”のです。

 この”一方的な救い主の御業によって救われると信じる事が正しい知識”なのです…そして、この”信仰は人を救い続け”ます…”主イエスが黄泉に降って下さったという事は、私達の絶望の最も深い所まで降って下さったという事だから”です。もし私達が「誰も分かってくれない」と呻くような所を通ったとしても、”もっと深い絶望と悲しみを通られた御方が、共にいて自分の苦しみを理解して下さっている事を知っている事は大きな慰めです”。

 もし”死を迎える時”が来ても、”共にいて下さるキリストが、自分を天まで携え上げて永遠の命の輝きの中に立たせて下さる”のです…このように、”正しい信仰は人を救い、そして教会で救い続け、更に死の絶望からさえも解放して下さる”のです。