つまずきの石から救いの岩へ

ロ−マの信徒への手紙9章30〜33節 
9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

詩篇89篇27節
89:27 彼は私に呼びかけるであろう。「あなたは私の父、私の神、救いの岩」と
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995

 
  つまずきの石から救いの岩へ

ロ−マの信徒への手紙9章30〜33節.2005.2/13
  今朝、共に読みましたロ−マの信徒への手紙9章30〜33節の所は、何気なく読み過ごしてしまう所です。しかし、ここには”福音の急所”が記されているのです。

 ここを読んでいて印象に残る言葉は、”つまづきの石”という言葉です。キリスト教最初の伝道者パウロが、神に選ばれた筈の同胞ユダヤ人達に対して、「何故、預言されていた救い主を受け入れて、神の命を頂いて、クリスチャン(キリストの躰)という新しい神の民とならないのか?」と心痛めながら書いた所なのです。

9章30〜31節に「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」とありますが、ここの、「しかし」の後に”パウロの呻きがある”のです。

「イスラエルの民は義を求めていた」です。これは”ロ−マ書の中心テーマ”である、”神の義”を求めていたという事です…”神の義”というのは、”罪無きキリストという衣を着させられて、罪深い者が全く罪無き者のように神に受け入れて頂く事”でした…実は、ここにこそ人の真の安息があるのです。

 しかし,”イスラエルは、神の義の求め方を間違えていた”のでした…”32節「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」とあるように、「律法を守る」という行いによって神の義を得ようとしていた”のでした。修行によって悟りを得ようとする日本人の感覚に似ています。

 しかし、ここで聖書は奇妙な事を言い始めるのです…「義の律法を追い求めていたイスラエルが義に達しないで、義を求めなかった異邦人が義を得た」と…。”イスラエルは義の律法を追い求めていた”のです…この「追い求める」という言葉は、”激しく力一杯求める”という強い言葉です。しかし、”イスラエルは不合格になってしまった”のでした。

 ”富める青年”のお話があります…小さい頃から律法を全て守ってきた、地位も権力も財産もある理想的な青年が、イエス様に「永遠の命に預かる為に何が足りないか」と問うた時、イエス様が次のように言われたのです。

マルコ書10章21節「イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積む事になる。それから私に従いなさい』その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。沢山の財産を持っていたからである」…余りにも非情な求めです。しかし、”イエス様は慈しんで言われた”のでした。

 何故、イエス様ともあろう御方が、こんな事を言われたのでしょうか?…その答えが32節なのです「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように考えたからです」…”主イエスは、この富める青年を慈しみ、救いに至る正しい道に気づくように,救いに至る道を鋭く突いた”のでした。ならどうしたら良いのですか?自分の求め方を捨てる覚悟で聴けば、主イエスは「信じるだけで救われる」と答えられたと思うのです。

 しかし”神の義を得たのは異邦人”でした…私達も含む”異邦人は、主イエスが求めるような、生き方をしていた訳ではなかった”のです。元々、異邦人は、”神の義がある事さえ知らない。神の義を求める事が人生で最も大切な事だと知らない人々”だったのです…ですから聖書には「義を求めなかった異邦人」と書いてあるのです。しかし、”そんな異邦人に神の義が与えられた”のでした。

 そんな大逆転が起きた訳は、「神の義を得た」という言葉にあります…この「得た」というのは「与えられた」という事です。”人の救いは、善い行いによってでなく、神の一方的な憐れみによる”ものだと言っているのです。その”神の憐れみに預かる道はただ1つ”です…それは”キリストを信じる事”です。”キリストの十字架は自分の罪を贖う為だったと信じる者を神は憐れまれる”のです。

 では”善い行い”はどうなるのか?…善い行いは、救いに至る手段でなく、救われて聖霊が与えられた新しい心から、自然と湧き出て出て来るキリストの香り”なのです。

 ”イスラエルは真の神の民となる道であるキリストにつまずいた”のでした…”それは余りにも大きな挫折”でした。”信仰生活の、つまずきや挫折は神から離れる事につながります”…ですから、教会に新来者が来られた時には、牧師は心の中で、その方の求道生活が挫折しないように、また洗礼を受けられた後も、信仰生活が挫折せずに自立するように祈っています。”イスラエルも神の民として選ばれながら、キリストにつまずき、神の民となる命を得られずに神から離れてしまった”のでした。

 この「つまずく」という言葉は悪い意味での教会用語でもあります。「教会につまずいた」「牧師につまずいた」というように使われる言葉です。私はこの言葉が嫌いで使わないようにしています。聖書学院時代に友人が言った言葉を忘れる事が出来ないからです。

「つまずくというのは、人を上から見て(人を審く神の座に人が立って)人を審く言葉だと思う。自分がどんな人間で、どんな絶望的な所から、神の一方的な憐れみで救われたかが本当に分かっていれば、人に対してつまずくという言葉は使えない筈だ」という言葉です。

小さい子供の母親が、石につまづいて転んだ子供を慰める為、「悪い石ね。こんな所にあって」と言います。この「あなたは悪くないのよ」という母親と同じように、「つまずいた」と言う言葉を使えば、自分を正当化し、教会や神から離れる事さえも正当化できると誤解しているようです。ですから「つまずいた」という人は決まって教会から離れて行かれます。パウロもハッキリ言いました。イスラエルも、「キリストにつまずいたと言って救いに至る事が出来ず神から離れていった」と。

 ”キリストがつまづきの石となった原因は1つ”です…”救いを求める歩き方が悪かったから”でした。”救いを求める歩き方は、”行いではなく信仰によって歩く事しかない”のです。

 日本人の宗教に対するイメージは、「こうであるべき。〜すべき。立派な行いをする」という倫理が染み込んでいます。ですから、”「私達は信仰によってのみ人は救われると聞いても、それは建て前」として聞いてしまう”のかも知れません。

 私共の教団が属する聖め派の教会では、しばしば福音を律法主義的に説教してきました。たとえばクリスマス説教で、天使が現れて救い主の御降誕を羊飼いに告げたという事を語る時、よく「立って行かないと救い主にお会いできないのだから、私達も立って行って、キリストにお会いしなければなりません」と語られて来ました。

 しかし、”聖書はそんな事を言っていません…イエス様がこの世に来て下さった。天使がそれを羊飼い達に告げた”とだけ言っているのです。羊飼いは動物の世話をする仕事でしたから、”礼拝を守れない人というレッテルを貼られていた”のです。”そんな自分達の所に、真っ先に天使が救い主の御降誕を告げに来て下さった”…だから”喜びに突き動かされて思わず立ち上がって走って行った”のでした。

 ”説教というのは、この喜びを告げるもの”なのです。なのに「立って行く努力をすべき」という説教をして来たのです。それは説教者だけの問題ではなく信徒の方々にもいえる事です。「私は〜してしまった。だから私はクリスチャンとして失格だ」というように、”自分の行いで自分の救いを計った経験はないでしょうか?隣人に対して向かえば「あの人は〜な事をしたからつまずいた」と言う言葉になります。

 詩篇89篇27節に「彼は私に呼びかけるであろう。『あなたは私の父、私の神、救いの岩』と」とあります…”世の人々が、つまづきの石であるキリストを救い主として信じる時、「キリストは私の神、救いの岩となる」”という”預言が私達の上に成就する”のです。

 ”主イエスが、どのような救いの岩となるのか?…私達の心に救いの岩として鎮座して下さる”のです。イザヤ書8章14節に「主はイスラエルの二つの家には聖所となり、また妨げの石、つまずきの岩となり」(口語訳)…キリストは信ずる者にとって聖所(心にお住まいくださる)となるのです。しかし、”信じない者には、つまづきの石となる”というのです。

 キルケゴールという哲学者は「死に至る病」という本の中で次のような事を語りました…「人間の罪というのは、人間が絶望している事だ。人間の絶望というのは、望みを持たない自分に固執している結果であり、その時その人は神を信じていない。キリストを信じていない…そこには絶望しかない」というのです。

”つまずきや絶望は、キリストを信じていない所に生まれる”のです。ローマ9:33に「見よ、私はシオンに、つまずきの石妨げの岩を置く。これを信じる者は失望する事がない」とあります…”人がキリストを信じる時、つまづきの石であるキリストが救いの岩となる”のです。そして、”この救いの岩を失望が打ち砕く事は出来ない”のです。

この朝、共に、”自分が固執しているものを捨て空っぽになって、つまづきの石として来たキリストを信じ、キリストに救いの岩となって頂き、決して失望に終らない救いを体験して行きたい”と願います。