「味方なる神」
ロ−マの信徒への手紙8章31〜34節
8:31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
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    「味方なる神
 ロ−マの信徒への手紙8章31〜34節.2005.1/9

 今日からローマ書に戻ります。今朝お読みした箇所には、”キリスト者に与えられている恵み”が、これ以上にない言葉で記されております。

 ここには4つの「誰が?」が記されております。31節「誰が…敵対できますか?」、33節「誰が…訴えるでしょう?」、34節「誰が…罪に定めることができましょう?」、35節「誰が、キリストの愛から…引き離すことができましょう?」…ここには「そうではないのか?…そうではない!」という意味を強める文法が使われています。
今朝は、この箇所から「私達の味方である神」について共に聴いて参ります。

 31節に「もし神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか?」とあります。「神が私の味方である」というのは絶対的な信頼の言葉です。原語のギリシャ語では、”味方”という言葉ではなく、「ために」とか「側で加勢して下さる」という意味の言葉が使われています…「何時も自分の側で、自分のために加勢して下さる」というのは味方の姿です。

”天地万物を創られた、神が味方である事を心から信頼できて、味方である神を肌で感じながら歩めたらなんと感謝な事か”と思います。

 そして後半には、「誰が私達に敵対できますか?」とあります。私共もしばしば敵と出会い苦しみます。敵とまで言わなくても、自分を理解してくれない人と言えば良いでしょうか?そんな時、”神が味方”である事を信頼できるという事は大きな事なのです。

 たとえば旧約聖書に登場するヨシュアの姿にも、この”神への信頼”を見る事が出来ます…”ヨシュアはモーセの後継者として神に立てられた若き指導者”でした。

 モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエル人二百万人を引き連れてエジプトから脱出した偉大な指導者でした。エジプトから出て40年後、いよいよイスラエルに入国しようとした時、モーセが死んでヨシュアが立てられたのです。若いヨシュアはその荷の重さに恐れおののきました。

 そんなヨシュアに対して、”神は一つの約束”をされました。ヨシュア記1章5節「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と…。味方になるという神の言を信頼したヨシュアは、民を率いてヨルダン川を渡りイスラエルに入って行きました。

 しかし故国には、違う民族が住んでおり敵として立ちはだかったのです。目の前には堅城鉄壁な敵の城エリコがありました。中には軍隊が待ち構えていたのです。一方ヨシュアの味方には兵士はおりません。流浪の民だったからです。神の言に信頼したものの、どうにもならない現実が横たわっていたのです。民はおじけづき、ヨシュアも「どうしたら良いのか?」と頭を抱えました…その時、主が現れ「割礼を施しなさい」と命じられたのです。

割礼を受けると暫く動けません。それは敵の前で無防備になる事を意味しました…しかし、”割礼には、「神のものとなる」という意味がある”のです。

 40年前にエジプトから出た人々は、主の御声に聞き従わなかった為、約束の地に入る事が許されず荒野で死んでしまったのでした。その子供達に同じ轍を踏ませない為、”神の言に従い切るものとなる事を求めた”のでした。

その命令に従い終えた時に、神の遣いが現れ、剣でエリコの城を指して「私は軍勢の将として、あなたの味方に来た。あなたの足から靴を脱ぎなさい。全く服従して私について来なさい」と言われたのです…”戦う事ではなく神の言に従う事”を求めたのでした。

 そしてヨシュアと民は、神の言に従いエリコの城の周りを7日間回ったのです。7日目、地震が起きてエリコの城は崩れ墜ちたのでした…神の言が成就したのです。人は危機の中で味方である神を知るのです。ですから、この事は、”私共に対する神の約束”でもあるのです。

 神が味方である根拠が32節にあります…「私達すべての為に、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らない筈がありましょうか?」

 ここで神が与えて下さろうとしておられるものは何でしょうか?…私共が欲しいものは、少しの間満足を与えてくれる物が殆どです。しかし、ここで”神が与えて下さるもの”は、”永遠の命に拘わるもの”なのです。ある人は「まるで神様は、御自身の独り子よりも、この私の方がもっと大事なようだ」と言いました。「私達の為に御子をさえ惜しまず死に渡された…」とあるからです。

 神は「私は、あなたの永遠の命の為に御子さえ死に渡した…だから、あなたの永遠の命の為には全てを与える。また、あなたに起こった全ての事を益と変える」と言われるのです。

 旧約聖書にアブラハムが登場します。信仰の父アブラハムは、百才になった時、待ち望んでいた子供をやっと授かりました。アブラハムはその子イサクを目に入れても痛くない程可愛がりました。しかし、ある時、神様は「イサクを献げよ」という非情な命令をされたのです。

アブラハムは黙って従いました。そしていよいよ剣を我が子に振り下ろそうとした時に神に止められたのです…この命令はやがて、”神が独り子を惜しむことなく、死に渡して下さる、その愛を教える為”でした。「惜しむ事無く」というのは「救いたい一念の余りに迷う事無く」という事なのです…しかし、そこには”神の痛みがあった”のです。

”御子が人々の罪を背負って十字架に架けられ、神が御子を審かれ捨てられた時”、そこには”凍り付き、砕け散るような神の痛みがあった”のでした。これは”三位一体の神の愛の交わりから、一つである子なる神を捨てられた神の自己破産”なのです。

 何故、そこまで神がして下さったのでしょうか?…”神がそうしてくださらなければ、私共は永遠に滅んでしまうから”でした。しかし味方である神は、更なる事をして下さったのです。

 34節「誰が私達を罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達の為に執り成してくださるのです」

この中にある「否」という言葉は、原文では「いや、むしろ」というもっと強い表現です。”イエス・キリストは人の贖いの為に死んで下さった”。それがどんな神の痛みの愛であったか!…それは大事な事です。”しかし、いやむしろ、私達にとってもっと大事なものがある”と言うのです。

 それは、”キリストが甦られた”という事なのです。原文では、「甦らされて」となっています…”キリストは神の力によって墓の中から引っぱり出されて、神の右の座に座らせられた”のです…”神の右の座”は、”神の力を象徴する位置”であります。

そしてキリストは今も,私達の味方として働いておられるのです。どんな風にかと申しますと、”執り成しの祈り手”として神の力をもって執り成して下さっているのです…「父なる神よ、○○兄姉の罪を赦して下さい」と、お祈り続けて下さっているのです。

 辻宣道牧師の「年の終わりに」という文を御紹介します。

 「恵み深い神さま。ここに1年が過ぎようとしています。いま私達は「来年は実がなるかもしれません。もしそれで駄目なら切り倒して下さい」というほかないような気持ちでいます。神さまが断罪する事を延ばして下さった為に、私達の今日はありました。

もしあなたが私の不従順、偽善、不真実を暴かれるなら、青ざめてそれを受けるより道のない者です。しかし、あなたはイエス・キリストに免じてしつこく罪を追求せず赦しの中に置いて下さいました。ありがとうございます。

キリストがそばにいて「もう一度やり直してみなさい」と言われるので、勇気が湧いて参ります。御言葉に従って従順に網を降ろした弟子達のようにやり直そうとする素直な気持ちを起こさせて下さい。そこに希望を見出させて下さい。キリストによって祈ります」という、”キリストの執り成しを見上げて書かれた文”です。

 さて私共の敵とは何でしょうか?…自分を迫害する者。或いは批判する者かも知れません。しかし、”神との間を阻む最大の敵は自分自身”なのです…神を愛する、聖書を読む、祈る、赦す、神に従おうとする時、それを阻むのは自分自身なのです。”キリストはそんな神に敵する者の為に、味方として執り成して下さっている”のです。

 やがて世の終わりに最後の審判で、私達が神の御前に立った時、”誰かに罪を訴えられるかも知れません。しかし最も恐ろしいのは、聖書はその時、自分の良心が、自分の良心のとがめを訴える”と言うのです。言い逃れができない絶体絶命です。しかし、キリストは私達に対してずっとそうだったように、その最後の審判の場でも、「父なる神よ、この人を赦して下さい。私がこの人の為に代わりに死にました。この十字架の血潮に免じて赦して下さい」と執り成して下さると言うのです。

また、この”執り成し手は、永遠の命にいたる為に全ての事を益と変えて下さる”のです。

 この”キリストの執り成しのゆえに神は私達の味方”なのです。弱さや挫折の中でも、この”主イエスの執り成しを見つめ、味方である神を信じ、また、神に真実に応答する力を祈り求ながら”歩んで参りましょう。