「救霊の情熱」
ロ−マの信徒への手紙9章1〜5節
9:1 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
9:4 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
9:5 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
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(c)日本聖書協会 Japan Bible Society,Tokyo,1987,1988,1995
「救霊の情熱」
ロ−マの信徒への手紙9章1〜5節. 2005.1/23
今朝から9章に入ります。ローマ書を3つに分けますと、今朝から入る、9章〜11章の部分は真ん中で、魚で言えば背骨に当たる所です。
8章までの前半と、12章からの後半は美味しい身に当たる部分です。しかし、真ん中の骨の部分は固く食べにくい所です。しかし、骨のない魚は考えられません。骨がしっかりしていてこそ、健康に泳ぎ回り身が締まった美味しい魚になるのです。
或る意味、使徒パウロが1番語りたかったのは、この9章〜11章だったのです。そうした事を踏まえつつ9章に入って参ります。
パウロは始めの内はユダヤ人に伝道していました。その頃のパウロは、ユダヤ人に「神の民として契約した、あなたがたユダヤ人の為に、神は独り子を救い主として十字架に架け、あなた方の罪を赦し、神の民として取り戻して下さったのだ」と言ったのです。
しかしユダヤ人達はパウロに向かって「神が愛と真実の方であるなら、神の民である私達が、どうしてローマの占領下で、こんな惨めな生活をしなければならないのか?」と反論したのでした。そこで”パウロは、「神の真実」を証明しようとした”のがこの所なのでした。
パウロは10章1節になりますと、「兄弟たち、私は彼らが救われる事を心から願い、彼らのために神に祈っています」と言うのです…”パウロはイスラエルが、神の民としての命を回復する事を心から祈り続けて来た”のです。そうした祈りの中で、”パウロは聖霊によって神の御心を示された”のでした…。それは「イスラエルの不信仰と頑固さが、神がイスラエルに対して目を閉じられておられる原因なのだ」というものでした…”頑固な心というものの恐ろしさ”に気づきます。
そして,”パウロは、神から同胞であるユダヤ人伝道から、異邦人伝道(世界宣教)へと導かれた”のです。そんなパウロに対してユダヤ人は、「パウロは同胞を愛していると言いながら、異邦人伝道ばかりしているではないか?」と批判したのです。
その時パウロは、聖霊に押し出されるように心の内にある思いを語り出したのです…2〜3節「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。私自身…同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」。
ここにある「深い悲しみ」というのは、「心と身体を貫く深い悲しみ」という事です。この時、”パウロの心と身体には、悲しみが、歯の痛みのように、絶え間なく、ずきん〜と貫いていた”のでした。
この”パウロの心の中を表す言葉は、決して社交辞令や上っ面なものではない”のです。1節で「私はキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。私の良心も聖霊によって証している」と言っているからです。ここにある「キリストに結ばれた者として語る」というのは、「神の御前で語る」という事です…”キリストの十字架によって、神との交わりを回復した者は、神の御前に出る事が出来るから”です。
続く「私の良心も聖霊によって証している…」というのは、「良心の呵責無しに、聖霊に導かれて告白している」という事です。続けて3節でその内容を述べています。「…肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と…。
この「思っています」という言葉は未完了過去形なので、「いつもそう祈って来たが、まだ実現されていない」という事なのです。パウロは心底神の御前で、「私はキリストから離されても良い。神に捨てられても良いから、同胞イスラエルを神の民として回復して下さい」と祈ってきたのでした。驚くべき事です。”キリストを拒否して十字架に架け、クリスチャンをも迫害しているユダヤ人の為に、そんな祈りを祈っていた”のです。
”ユダヤ人の事をイスラエル”とも言います。日本人とかアメリカ人と言う民族名で言えば、彼等はユダヤ民族でした。”イスラエルという名は「神の民」を指した言葉”なのです…しかし、”神の民としての命を取り戻す為には、生きた信仰が求められた”のです。
4節に「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」とあります。
”神の民というのは、神の子(皇太子)という栄光の身分に生きる者”なのです。そして”神はイスラエル(神の民)の為に、神の民として生きる道を教える律法を与えられた”のでした。
また”神の民は、何よりも生きた礼拝によって神の民となった”のです…”礼拝で共に同じ神の名を呼び、神を喜びながら、自分が神の民に所属している事を体験した”のでした…しかし,”ユダヤ人の礼拝は形骸化していて信仰の命が失われて400年も経っていた”のでした。
そこで”神は、神の民が信仰の命を回復する為、「新しい神の民」を生み出す道”を開かれたのです…”主の十字架への信仰によって、救われる道(罪を赦され、義とされ、神の子とされ、永遠の命を頂く)”でした…けれども”イスラエルの民は、キリストの十字架を受け入れなかった”のでした。
”十字架によって救われる”という”新しい救いの道(福音)は、全ての人々を救う道”でもありました。”ユダヤ人が、再び真の神の民になるには、この道(福音)を認める必要があった”のです…しかし、ユダヤ人は、自分達が神の民とされている根幹が揺がされると感じ、不安と怒りに支配されて福音を拒絶した”のでした。
しかしパウロは,ここで、そんな”同胞ユダヤ人の間に立って神に問うた”のでした…「神さま、あなたの救いは何処にあるのですか? 彼等は神様が選ばれた民の筈です。今迄あなたは、どんな罪の中からも、この民を救い続けて下さったではないですか? そして、今、あなたがお送り下さった救い主を彼等は信じようとしません。何故、あなたはユダヤ人を頑ななままにさせておられるのですか?」と祈ったのでした。
言い換えると、これは、「神さま、神の御計画が失敗したのですか?…それでもあなたは神なのですか?」ともとれる”危険な問い、信仰を疑われかねない問いだった”のです。
しかし、「本当に神の恵みに生きている者の姿は、このような問いを祈るのではないか」と思うのです…”自分さえ恵まれれば良いというのは、恵みに生きている者の姿では無いから”です。
8章でパウロは、「父なる神はどんな試練の中でも、神の愛から離さないお方」と語りました。また、「私共が試練の中で『アッバ父よ』と祈る時、聖霊なる神は、共に呻きながら執り成して祈って下さっている」とも書きました…これは、”パウロが経験した神の愛”なのです。
”パウロは、このような神の愛に生きている中で、滅びに向かう同胞の姿が痛みとなってきたのでした…祈りの中、聖霊のユダヤ人に対する呻きが、自分の痛みとなった”のでした。
私共も、「神に愛され神を愛しているのに、何故、自分の愛する家族が燐人が神を信じてくれないのか?」と”痛み祈る”経験を致します…私自身、牧師として、群れのも試練の中におられる方のため、魂の取り扱いが必用な方々の為に祈る時、辛い思い、痛い思い、悲しい思いを経験します。牧師としての痛みかも知れません。
でもそれは、”自分の救いの為に痛みを担い続けて下さったキリストの痛みを、今度は自分が愛する者の為に、キリストと共に痛みを担う”事なのだと思います。
あのモーセもそうでした。イスラエルが罪を犯した時に、「私は、この民の為ならば、永遠の命に入る為に神の手元にある命の書から名前を消されても良いのです」と神に祈ったのでした…そして、”このモーセの祈りを、イエス・キリストは十字架に架かって実行された”のでした。
主イエスは弟子達にも「自分の十字架を負って私について来なさい」と言われました。パウロは、このキリストの言葉に生きたのです。ですから3節で「同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」と祈ったのでした…まさに”パウロは十字架を負うような痛みに生きた”のです。
”滅びに向かう者の為に祈る事こそが、この朝、私共が神に問われている事”ではないでしょうか?…そこに、”滅び行く者への愛が生まれ、教会の伝道が始まる”からです。
パウロは、5節の頌栄「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」をもってこの祈りを終え”ました…頌栄は礼拝の頂点、高らかに神を褒め称える所です。それは,”聖霊の痛みを共に痛み祈る祈りは、必ず神に聴かれていると信じる事が出来た”からでした。